Page:成吉思汗実録.pdf/327

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と​共​​トモ​に​不合兒​​ブカル​ ​薛米思堅​​セミスゲン​ ​兀嚨格赤​​ウロンゲチ​ ​兀丹​​ウダン​(

​兀丹​​ウダン​ 卽ち​和闐​​ホータン​

兀丹は、史記の于𥧑、漢︀書 以來 歷代 史志の于闐、今の和闐なり。唐 西域記は、その梵語の名を擧げて「瞿薩旦那 國、唐言地乳、卽其俗之雅言也。俗語謂之 渙那 國、匈奴 謂之 于遁、諸︀胡謂之 豁旦、印度 謂之 屈丹。舊曰于闐、譌也」と云ひ、耶律 楚材の西游錄には「高昌西三四千里、有五端 城、卽唐之 于闐 國、河出烏白玉」と云へり。于闐の玉を產することは、歷代の史に詳なり。元史には屢 斡端と書かれ、只 地理志に忽炭とあり。西域記の豁旦、地理志の忽炭は、皆 突︀兒克 語の闊壇を音譯せるなり。闊壇の名は、珀兒沙の古史に屢 見え、馬兒科 保羅は科壇と呼べり。この國は、西 亞細亞には玉のみならず麝香の爲に名高し。)​乞思合兒​​キスガル​(

​乞思合兒​​キスガル​ 卽ち​喀什噶爾​​カシユガル​

乞思合兒は、漢︀書 以來の疏勒、今の喀什噶爾なり。唐 西域記は、佉沙 國と書きて、「舊謂〈[#返点の「二」は底本では、なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 疏勒者︀、乃稱其城號也。正音宜室利訖栗多底。疏勒 之言、猶爲譌也」と云ひ、新唐書 疏勒の傳には又「王居迦師 城」と云へり。元史 世祖︀紀 至元 十一年に合失合兒、二十五年に可失合兒、地理志に可失哈耳、曷思麥里の傳に可失哈兒、耶律 希亮の傳に可失哈里とあり。珀兒沙 阿喇必亞の史家は、古くより喀什噶兒と云ひ、馬兒科 保羅は喀思噶兒と云ひ、捏思說理 宗の敎正 分擔の圖には喀深噶兒と綴れり。)​兀哩羊​​ウリヤン​(

​兀哩罕​​ウリカン​ 卽ち​葉爾羌​​ヤルカンド​

羊は、恐らくは罕の誤ならん。兀哩罕は、漢︀書 以來の莎車、今の葉爾羌なり。元史 世祖︀紀 至元 十一年の條に鴉兒看、曷思麥里の傳に押兒看、耶律 希亮の傳に也里虔とあり。突︀兒克 語には牙兒堪篤と云ひ、馬兒科 保羅は牙兒牽と云へり。)​古先 荅哩勒​​グセン ダリル​(

​古先 荅哩勒​​グセン ダリル​ 卽ち曲先 荅林

明史 西域傳に曰く「曲先 衞、東接安定、在肅州西南。古西戎、漢︀西羌、唐 吐蕃、元設曲先 荅林 元帥府。」曲先 荅林は、卽この古先 荅哩勒なり。安定 衞は、甘州の西南 千五百里に在りて、廣袤 千里なりとありて、曲先はその西に在りと云へば、その地は、肅州の西南、于闐の東南に當り、今の靑海︀の西邊 西藏の北邊に在りしなり。)などの​城​​シロ​どもを​知​​シ​らしめに​任​​コトヨサ​して、その​父​​チヽ​を​牙剌哇赤​​ヤラワチ​を​伴​​ツ​れ​來​​キ​て、

​乞塔惕​​キタト​の​荅嚕合赤​​ダルガチ​

​乞塔惕​​キタト​の​中都︀​​チウト​の​城​​シロ​を​知​​シ​らしめに​伴​​ツ​れ​來​​キ​たり。​撒兒塔黑​​サルタク​の​人​​ヒト​より​牙剌哇赤​​ヤラワチ​〈[#「牙剌哇赤」は底本では「牙剌哇亦(ヤラワイ)」。「元朝秘史」§263(11:51:03)の漢︀字音訳に倣い修正]〉 ​馬思忽惕​​マスクト​ ​二人​​フタリ​の、​城​​シロ​の​體例​​タイレイ​ ​緣故​​コトノモト​に​通​​ツウ​じたるの​故​​ユヱ​に、​乞塔惕​​キタト​の​民​​タミ​を知らしめに、​荅嚕合思​​ダルガス​と​共​​トモ​に​任​​コトヨサ​したり。(牙剌哇赤 は、喇失惕の史(多遜)に馬呵木惕 也勒縛只と呼び、抹哈篾惕 敎徒にして、太祖︀ 以下 四朝の閒 蒙古の大官を勤めたりと云ひ、馬思忽惕は、馬思速惕 閉と呼ばれ、突︀兒其思壇 只渾 河 地方の牧長となれりと云へり。親征錄 己丑(太宗 元年)八月 太宗 卽位の所に「河北先附漢︀民賦調、命兀都︀ 撒罕主之、西域賦調、命牙魯瓦赤之、」また辛丑(太宗 十三年)に至り

史錄の​牙老瓦赤 麻速忽​​ヤラワチ マスト​

「冬十月、命牙老瓦赤管漢︀民、」と見え、元史 太宗紀 元年 己丑 八月 卽位の所に「命河北漢︀民戶計出賦調、耶律 楚材 主之、西域人以丁計出賦調、麻合沒的 滑剌西迷 主之、」また十三年 辛丑「冬十月、命牙老瓦赤管漢︀民公事、」憲宗紀 元年 辛亥 六月 卽位の續に「以牙剌瓦赤 不只兒 斡魯不 覩荅兒 等燕京等處行尙書省事、以訥懷 塔剌海︀ 麻速忽 等別失八里 等處行尙書省事、」世祖︀紀に