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入り、古兒只の兵を破り、失兒彎に入り、迭兒邊篤の關門を破り、阿闌の地に入りき。」多遜に據れば、篾喇噶を破れるは、一二二一年(太祖︀ 十六年)、迭兒邊篤を破れるは、一二二二年(太祖︀ 十七年)なり。迭兒邊篤は、高喀速 山の東端に在りて、亞細亞 歐囉巴の界を爲せり。者︀別 速別額台の歐囉巴に入りたることは、喇失惕の史には委しからざる故に、

​多遜​​ドーソン​の史

多遜は、亦奔 阿勒 阿提兒の「喀米勒 兀惕 帖哇哩克」(全き歷史)に據りて記せり。その略に曰く「蒙古 人は、高喀速 山を踰えたれば、阿闌 列思吉 徹兒客思 乞魄察克 兵を連ねて禦ぎ戰ひ、勝敗 決せず。蒙古 人は、甘言を用ひて乞魄察克 人を誘ひ、その同盟を棄てさせ、然る後に阿闌 等の眾を破り、帖兒乞の城を取り、遂に乞魄察克の地を襲ひて、その眾を追ひ散らし、大なる曠野を過ぎて、速荅克まで進みたり。乞魄察克の大眾は、嚕西亞に遁げ入りたれば、嚕西亞 人は、それらと同盟して敵に當らんとす。一二二三年(太祖︀ 十八年)、蒙古 人は、嚕西亞に攻め入らんとして、嚕西亞 乞魄察克 連合の兵に遇ひ、佯り負けて遁げ走り、十二日の閒 敵に逐はれて、伏を設けて遽に起り、七日 烈しく戰ひて遂に勝を決し、嚕西亞 乞魄察克は全く敗れたり。それより蒙古 人は、嚕西亞に入りて焚掠を逞せり。一二二三年の末に、蒙古 人は、嚕西亞を去りて不勒噶兒の地を侵し、その兵を破り、撒喀新を過ぎて、大軍に會せり。」

​喀喇姆津​​カラムジン​の嚕西亞 史

喀喇姆津の嚕西亞 史に曰く「その時 嚕西亞はあまたの小國に分れ、その中に速思荅勒(兀剌的米兒)は、重要なる國にて、その大公は列國の宗主の如く見られたり。大公の宮所は、もと乞額甫にありしが、一一六九年に兀剌的米兒に遷れり。嚕西亞に遁げ入りたる玻羅物次(乞魄察克 人)の內に、噶里赤の君 姆思提思剌甫の妻の父なる部長 科提安(洪噶兒の史には庫壇)と云ふ人あり、塔塔兒(蒙古 人)を禦ぐ手段を取ることの必要なるをその壻 姆思提思剌甫に說き勸めたれば、姆思提思剌甫は、南 嚕西亞の諸︀侯と乞額甫に會して、玻羅物次を援けて塔塔兒に當らんことを議決せり。乞額甫 徹兒尼郭甫 噶里赤の三君(名は皆 姆思提思剌甫)とその他の諸︀侯と篤聶珀兒(尼珀兒)河の濱に軍を聚めたる所に、塔塔兒の使 十人 至りたれば、それらを皆 殺︀して、然る後に軍を進め、闊兒提擦 河(額喀帖哩諾思剌甫の南 五十 英里ばかりにある尼珀兒 河の潀水)に近く塔塔兒の軍に遇へり。勝を得たれば、嚕西亞人は、篤晶珀兒 河を渡りて、塔塔兒を九日 逐ひて喀勒喀 河に至れり。噶里赤の姆思提思剌甫は、北軍に居り、玻羅物次と共に河を渡りて塔塔兒の中軍を衝かんとして、打破られ、塔塔兒 人は、勢に乘じて河を渡り、嚕西亞の南軍を襲ひて、その眾を殲滅せり。これは、名高き喀勒喀 河の戰なり。」喀勒喀 河は、他の書には喀剌克 河ともあり。喀喇姆津は、馬柳玻勒の傍にて阿索甫の海︀に入る喀勒繆思 河の潀水なる喀列租 河に當てたり。

​速不台​​スブタイ​の傳

元史 速不台の傳に、只別(者︀別)と共に回回 國主を追ひたる事を叙べたる後に、「癸未、速不台 上奏請欽察、許之。遂引兵繞寬定吉思 海︀、展轉至太和 嶺、鑿石開道、出其不意。至則遇其 酋長 玉里吉 及 塔塔哈兒 方聚於 不租 河、縱兵奮擊、其眾潰走云云。遂收其境。又至阿里吉 河、與斡羅思 部 大小 密赤思老遇、一戰降之、略阿速 部而還」とあり。癸末は、太祖︀ 十八年にして、喀勒喀 河の大戰の年なり。二將の歐囉巴に入りたるは、その前年 壬午なれば、癸末の書き所やゝ違へり。寬 定吉思 海︀は、後文に寬 田吉思 海︀ともあり、裏海︀を云へるなり。突︀兒克語に、顚吉思は海︀の義にして、それより裏海︀ 巴勒喀施の如き大湖の名となれり。寬 卽 庫安は、委古兒語に湖なり。顚吉思は名となれる故に、その上に湖を冠らせたるなり。太和 嶺は、高喀速 山を指せるなり。玉里吉 塔塔哈兒は、洪鈞の哲別 補傳の自注に、西域書