亦思藍 敎に從へる者︀を巴施客兒篤、基督 敎に入りたる者︀を 鴻固囉思(洪噶兒 人)と分けたれば、馬札兒 巴施庫兒惕の外に客喇勒 客剌兒(卽 洪噶兒 人)を擧げても、重複にあらざるにや。)
亦的勒イヂル 河 卽ち佛勒噶ブルガ 河
この十一部落ジフイチブラクなる外國トツクニの民タミの處トコロに到イタるまで、亦的勒イヂル(亦的勒 河は、今の佛勒噶 河なり。突︀兒克 語に河を亦的勒 又は阿帖勒と云ふ。突︀兒克 人は、それを以て佛勒噶 河に名づけて、東方の人 皆その名を用ふ。思剌物 人の佛勒噶と名づけたるは、その河の畔にありし孛勒噶兒 城に本づけりと云ふ。西紀 五六九年(周の武帝 天和 四年)東 囉馬 帝の命を受けて突︀兒克(西 突︀厥)の汗に使したる在馬兒忽思は、その歸路に歹克(兀喇勒)河と阿提里亞 河とを渡れり。第十 世紀に、亦思塔黑哩は、阿帖勒 河は合咱兒の國を通ると云ひ、亦奔 忽兒荅惕必は、阿帖勒 城あることを云へり。その城は、蓋 今の阿思惕喇干なり。普剌諾 喀兒闢尼は額提勒と云ひ、嚕卜嚕克は額提里亞と云ひ、喀塔闌 地圖には額的勒とあり、朔方 備乘には額集爾また額濟勒と書けり。)
札牙黑ヂヤヤク 河 卽ち兀喇勒ウラル 河
札牙黑ヂヤヤク(札牙黑 河は、今の兀喇勒 河なり。突︀兒克語の原の名は牙亦克 又は札亦克なり。在馬兒忽思は歹克、普剌諾 喀兒闢尼は牙額克。嚕卜嚕克は牙噶克と云ひ、喀塔闌 地圖には牙也黑とあり、一五五八年 氈勤遜の孛合喇 旅行の記には、牙克 大河とあり。)
乞瓦キワ 綿 客兒緜メン ケルメン 卽ち乞額甫キエフ 大城
水ミヅある河カハを渡ワタり、乞瓦キワ 綿 客兒綿メン ケルメンの城シロの處トコロに到イタるまで(乞瓦は、次の卷には客亦別ともあり、嚕西亞の古き都︀なる乞額甫を云へるなり。綿 客兒綿は、次の卷に蠻 客兒蠻ともあり。突︀兒克 語に、蠻は大、客兒蠻は城市にて乞瓦 綿客兒綿は、乞額甫 大城なり。舎哩甫 額丁の「咱弗兒納篾」に、一三九五年、帖木兒の嚕西亞を征することを叙べたる所に「乞魄察克の君 必恰囉克 阿固連は、兀資 河の畔なる蠻 客兒綿の城に都せり」とあり。兀資 河は、阿不勒弗荅の阿租 河に同じく、今の篤聶珀兒 河 卽 尼珀兒 河なり。嚕西亞の舊史には蠻 客兒蠻の名 見えざれども、斡迭思撒の敎授 卜㖮は、一八七四年「乞額甫の第三 考古會の記事」に乞額甫の古名を述べて「この古城は、中世 蠻 客兒蠻の名にて聞えたり」と云へり。喇失惕は、一二四〇年 巴禿の南 嚕西亞を征することを叙べて「嚕西亞の大城 民格兒堪は、九日の攻圍の後に落ちたり」と云へり。民格兒堪は、多遜の音譯にて、別咧津は、蠻客兒蕃と音譯せり。これも乞額甫にて、正しくは蠻 客兒蠻なるべし。吠捏失亞の公使 寬塔哩尼は、一四七五年ごろ珀兒沙の往復に嚕西亞を通りて、乞鄂(乞額甫)は馬固囉蠻とも呼ばると云へり。)
者︀別ヂエベ 速別額台スベエタイ 二將の遠征
速別額台 巴阿禿兒スベエタイ バアトルを出征シユツセイせさせたり。(この遠征の主將は、速別額台 一人に非ず、者︀別 那顏と二人にて往きたるなり。さきに撒馬兒罕にて速勒壇 抹哈篾惕の追擊を命ぜられたる時は、者︀別 速別額台 脫忽察兒 三人なりしが、脫忽察兒 軍令に違ひ、降將 罕篾里克の地を侵して、軍を管することを罷められて後、者︀別 速別額台 二將は、闊喇散を經て、馬贊迭㘓に入りき。
喇失惕は、二將の急追 速勒壇の窮死 者︀剌列丁の南奔を叙べたる後、二將の遠征を叙べたり。その略に曰く「徹別 速不台は、成吉思 汗に使を遣り、速勒壇 死し者︀剌列丁 遁れたることを吿げ、これより後は、さきに受けたる命令に遵ひ、乞魄察克の地を繞り、抹古里思壇に回らんと奏し、軍を進めて亦喇克に入り、喇亦 庫姆 哈馬丹 箋展 喀自微音 諸︀城を取り、阿在兒拜展に入り、帖卜哩自を降し、篾喇噶を破り、哈馬丹の叛民を討じて回り、阿兒㘓に