古人の高喀速 山を踰えたる時 征服せる部族の中に喀思瑣吉の名あるにつきて、克剌普囉惕は「徹兒客思の古名は、喀思撒黑なりき。今も斡思薛惕 人 明咧勒 人は、徹兒客思を喀思撒黑と呼ぶ」と云へり。)
客失米兒ケシミル 卽ち喀施米兒カシミール
客失米兒ケシミル(客失米兒は、漢︀書 以下 歷代の史と高僧︀傳 等の佛書とに見えたる罽賓︀ 國 卽 今の喀施米兒にして、唐 西域記に「迦溼彌邏、舊曰㆓罽賓︀㆒、訛也」と云へり。後漢︀の初に健馱邏の迦膩色迦 王、五百の阿羅漢︀を集めて三藏を結集したる所は、卽この國なり。
哩惕帖兒は、罽賓︀を希臘 史家の科弗捏 卽 今の喀不勒に當て、咧繆咱は堪答哈兒に當てたるは、いづれも隋書 西域傳に「漕國、在㆓蔥嶺之北㆒(南の誤)、漢︀時 罽賓︀ 國也、」新唐書 西域傳に「罽賓︀、隋漕國也、居㆓蔥嶺南㆒」とあるに誤られたるなり。新唐書の罽賓︀の傳は、全く舊唐書の罽賓︀の傳に據り、迦溼彌邏の事を述べたるに、「隋漕國也」を加へたるは、蛇足なり。隋の場帝の時、西域 諸︀國を招ぎたれども、罽賓︀ 天竺は至らざりし故に、隋書には罽賓︀ 天竺の傳なし。隋書の漕國は、唐 西域記の漕矩吒 國にて鶴︀悉那(卽 噶自納)を都︀とし、弗栗恃薩儻那 國(今の喀不勒)の南に在り、罽賓︀ 卽 迦溼彌邏と異なり。隋書に「漢︀時 罽賓︀ 國也」と云へるは、唐の史臣の臆度の誤なり。新唐書は、旣に罽賓︀の傳に「隋 漕 國也」と斷りながら、その下に更に漕國の傳ありて「謝䫻、居㆓吐火羅 西南㆒、本曰㆓漕矩吒㆒、或曰㆓漕矩㆒云云。東距㆓罽賓︀㆒云云。其王居㆓鶴︀悉那 城㆒」と云ひ、又その次に更に罽賓︀の傳ありて「箇失蜜、或曰㆓迦溼彌邏㆒云云」と云へり。新唐書の疏謬 複沓は、元史にも讓らず。元史 憲宗紀に怯失迷兒、經世 大典の圖に乞失迷耳、郭侃の傳 常德の西使記に乞石迷、普剌諾 喀兒闢尼は喀思米兒、馬兒科 保羅は喀失木兒、喇失惕は今の如く喀施米兒と云へり。)
孛剌兒ボラル 卽ち孛勒噶兒ボルガル
孛剌兒ボラル(孛剌兒は、次の卷に不剌兒ともあり、元史 地理志には不里阿耳とあり、卽 佛勒噶 河の東に居りし不勒噶兒 又は孛勒噶兒なり。大典の圖に不思阿耳とあるは、里を思と書き誤れるなり。抹哈篾惕 敎徒の記者︀は、不剌兒とも孛剌兒とも云へるは、正に祕史に同じ。不勒噶兒は、早くより東西 二部に分れ、東部は卽 佛勒噶 不勒噶兒にして、普剌諾 喀兒闢尼 嚕卜嚕克は、その國を大 不勒噶哩亞と云へり。こゝなる孛剌兒は、この東 不勒噶兒なり。西部は、東部より分れて、第五 世紀の末に荅紐卜 河を渡りて今の不勒噶哩亞 國を立てたり。佛勒噶 不勒噶兒に對して、荅紐卜の不勒噶兒とも云へり。喀塔闌 地圖には、荅紐卜 河の下流の南に不勒噶哩亞、その河の北に不兒噶哩亞、額的勒(佛勒噶)河の東に孛兒噶兒と記せり。東 不勒噶兒の事を委しく述ベたる舊記は、第十 世紀の初にその國に到れる亦奔 拂自闌なり。その地は、佛勒噶 河の東岸と喀馬 河の濱とに廣がり、その都︀をも不勒噶兒と云へり。蒙古に取られてより、不勒噶兒の國は亡びたれども、不勒噶兒 城は、商業 學術の要地たることを失はずして、金 斡兒朶の諸︀汗の宮所とさへなりしが、第十五 世紀の初に、その城 廢れて喀散 城 代り興れり。遺址は、佛勒噶 河の東 四 英里、喀散より八十三 英里ほどなる喀散 州 思帕思克 郡にありて、今 兀思片思科頁また孛勒噶兒思科頁と云ふ村となれり。)
喇喇勒ララル(次の卷に二たび この十一部の名を擧げたる時、この喇喇勒の代りに客喇勒とあれば、上の喇は、客の誤なるべし。客喇勒は、洪噶兒 語にて王の義なる乞喇兒に似たり。蓋 蒙古人は、誤解して國の名に取りたるならん。喇失惕は、客剌兒に作りて、巴施吉兒篤の王とし、又 時としては祕史の如く誤りて國の名ともせり。客喇勒は、王號を國の名としたりとすれば、前の馬札兒と重複せり。喇失惕も、この重複を犯して、屢 客剌兒 巴施庫兒惕を竝べ擧げたり。然れども亦奔 賽篤は、