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の史に據れば、佛勒噶 不勒噶兒の東北 兀喇勒 山に近く、兀固喇 又は余固喇と云ふ所ありて、芬種の民 住めり。一四九九年(明の弘治 十二年)嚕西亞の大公 約安 伐昔列威赤は、兀固喇を打破りて、兀固喇の君の稱を兼ねたり。抹思科の克咧姆鄰 宮の門にその時に關せる喇甸 文の銘ありて、この君を翁噶哩 大公と稱せり。然らば兀固喇は、喇甸 語にて翁噶哩と云ひ、洪噶兒の名は、それより出でたるなり。洪噶兒 人は、第九 世紀に歐囉巴に入り、自らは馬札兒と稱したれども、嚕西亞の史家 捏思脫兒は、兀固哩と名づけ、艾 約瑟の職方 外紀には翁牙里とありて、舊土の同族と名 同じ。阿不勒弗荅は馬只噶兒と云ひたれども、そは亞細亞の巴施乞兒を指せるなり。馬札兒の名は、喇失惕の史にも見え、元史 速不台の傳には馬札兒とも馬茶ともあり。

​阿速惕​​アスト​卽ち​阿闌​​アラン​

​阿速惕​​アスト​(阿速惕は、阿速の複稱なり。阿速の名は、元史に屢 見え、西史には阿闌 又は阿思と云ひ、その國を阿剌尼亞と云へり。元史 地理志に阿蘭 阿思とあるは、二名 倂せ擧げたるなり。阿闌は、古くより高喀速 山の北の麓に住みたる部族にして、西紀の初頃より希臘 囉馬の書に見え、その後には東囉馬 阿喇必亞の書に見えたり。嚕西亞の史には、阿闌を牙失と云へり。九二六年(普の高祖︀ 天福︀ 元年)思威阿脫思剌甫は、董河の畔にある合咱兒の屬城を取り、遂に牙失 喀鎖吉と戰ひたりと云へり。第十三 世紀の嚕西亞の史家は、牙昔を帖咧古 河の後(南)、高喀速 山に近く住める民なりと記せり。蒙古の西征を述べたる抹哈錢惕 敎徒の史家は、この民を阿闌 又は阿昔と呼べり。普剌諾 喀兒闢尼は阿剌尼また阿昔と云ひ、嚕卜嚕克は阿剌尼また阿思と云ひ、基督 敎徒なりと云へり。阿不勒弗荅の引ける亦奔 賽篤は、阿闌と阿思とを二種に分けたれども、阿思は、阿闌の隣に住み、同じく突︀兒克 種に屬し、同じく基督敎を奉じたりと云へり。高喀速 山に今も居る斡思薛提 人は、阿昔の苗裔 又は同族なり。

​奄蔡​​エンサイ​ 卽ち闔蘇

史記 大宛の傳に「奄蔡、在康居 西北、可二千里。行國、與康居大同俗、控弦者︀十餘萬。臨大澤崖、蓋乃北海︀云。」漢︀書 西域傳も同じ。漢︀書 陳湯の傳に「郅支 單于 遣使責闔蘇 大宛諸︀國產遺」とあるに、顏師古 注して「胡廣曰「康居 北可一千里、有國名奄蔡、一名闔蘇。」然卽 闔蘇、卽 奄蔡 也」と云ひ、史記 正義にも漢︀書 解話を引きて「奄蔡、卽 闔蘇 也」と云へり。奄蔡の音は嚕西亞の舊史なる牙失に近く、闔蘇は卽 阿速にして、位置 名稱ほゞ合へり。謂はゆる大澤は裏海︀なるべきを、北海︀に當てたるは、張騫の想像の誤ならん。又 三國志 東夷傳の注に魚豢の魏略の西戎傳を引きて「又有柳國、又有巖國、又有奄蔡 國、一名阿蘭、皆與康居俗云云。故時羈屬 康居、今不屬也」と云へるは、阿闌の名を正しく著︀はせり。後漢︀書 西域傳に「奄蔡 國、改名 阿蘭 聊國」と云へるは、魚豢の魏略に據りて、阿蘭 國と柳 國とを誤りて一國に合せたるなり。然らばこの部族は、希臘 囉馬の人に早く知られたるのみならず、支那人にも早く聞えたるなり。阿速 人は蒙古に征服せられた後、蒙古の朝に仕へての名將となれる人 多く、元史 列傳に專傳あるもの九人あり。

​撒速惕​​サスト​ 卽ち​撒克新​​サクシン​

​撒速惕​​サスト​(撒速惕の單稱は撤速にて、嚕西亞の史には撤克新とあり。撒克新は、亦提勒(佛勒噶)河の下流にありし城の名にて、その民をもしか呼べり。抹哈篾惕 敎徒の書には、旣に第十二 世紀にその名 見え、主吠尼は、撒喀新と云へり。普剌諾 喀兒闢尼の撒克昔も、それなるべし。

​薛兒客速惕​​セルケスト​ 卽ち​徹兒客思​​チエルケス​

​薛兒客速惕​​セルケスト​(阿闌の南 高喀速 山の東に居たる部族にして、嚕西亞の古史には徹兒喀失、阿不勒弗荅は者︀兒客思、普剌諾 喀兒闢尼は客兒乞思 又は乞兒喀昔、嚕卜嚕克は徹兒乞思、喇失惕は徹兒客思、元史 地理志には撒耳柯思とあり。嚕西亞の史に、蒙