の義と解せり。他の歐囉巴 人は、庫曼 又は科曼と云へり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「この名は、喀思闢の海︀に流れ入る庫馬 河より出でたりと見ゆ。」普剌諾 喀兒闢尼 嚕卜嚕克 小 阿兒篾尼亞の海︀團 馬兒科 保羅みな科曼と呼び、その國を科馬尼亞と云へり。欽察の人にて元史 列傳に列したる者︀は、名將 土土哈 以下 專傳 七人 附傳 三人あり。)
巴只吉惕バヂギト 卽ち巴施客兒篤バシケルド
巴只吉惕バヂギト(巴只吉惕は、巴施客兒篤の訛にして、康克里の北 佛勒噶 河の東に住みたる部族なり。今も巴施乞兒と云ひ、その地方に猶 住めり。卜咧惕施乃迭兒は、乞卜察兀惕 巴只吉惕を乞卜察 兀巴只吉と讀みて、「兀巴只は、高喀速の西部 黑海︀の東濱に今も住める斡別資 阿巴資 又は阿卜合資ならん」と云へり。〈[#直前の句点は底本では、なし]〉蓋 祕史の帕剌的兀思 本には、乞卜察兀 巴只吉の下なる細字 旁書の惕の字 脫ちたる故に、卜咧惕施乃迭兒は、乞卜察兀の兀の字を巴只吉の上に附けて、兀巴只吉と誤りたるなり。巴只吉の上に兀の字なしとすれば、斡別資には似ずして、巴施客兒篤に近し。巴施客兒篤は、又 巴施庫兒篤とも云ふ。九二一年(梁帝 友貞 龍德 元年)合里發 木克帖的兒の命を奉じて、佛勒噶 河の畔に居る不勒噶兒を敎化せんが爲に派出したる亦奔 拂自闌の紀行に巴施庫兒篤の名 始めて見えたり。中世 歐囉巴 西亞細亞の史家は、みな巴施客兒篤は、突︀兒克 種の分部にして、歐囉巴の洪噶兒 人はそれより出でたりと云へり。普剌諾 喀兒闢尼は巴思喀兒惕と云ひ、嚕卜嚕克は帕思喀提兒と云へり。)
斡嚕速惕オルスト 卽ち嚕西亞ロシア
斡魯速惕オルスト(斡魯速惕は、嚕思の蒙語 兀嚕思 又は斡囉思の複稱にして、我等の嚕西亞なり。蒙古人は、嚕囉を正しくびて、魯羅と混るゝこと無ければ、斡魯速惕の魯は、もと嚕とありたるを筆寫の際に誤れるならん。又 蒙古語は、我が國の古語の如く、Rの音にて始まる詞なきが故に、嚕囉の上に母音 一つを加へて呼びたるなり。嚕思の名は、柳哩克の創業の時(八六二年、唐の懿宗 咸通 三年)より始まれりと見えて、東 囉馬の記錄に八六七年(咸通 八年)皇帝 米海︀勒 第三の時、囉思と云へる異敎の民、船 二百艘にて、京城を侵せることあり。その後 敎主 拂丑思は、傳道師を囉思の國に送れり。抹哈篾惕 敎徒にて始めて嚕思の名を書きたるは、八九〇年(唐の昭宗 大順 元年)ごろに地理書を著︀したる牙庫必なり。九二一年 不勒噶兒の國に派遣せられたる亦奔 拂自闌は、屢 嚕思の民に遇ひ、その民に關する珍しき記事を遺せり。第十 世紀より第十四 世紀までの閒、阿喇必亞 珀兒沙の史家は、皆 嚕思の事を云へり。元史 憲宗紀 睿宗の傳 曷思麥里の傳に斡羅思、成宗紀 一に兀魯思、速不台の傳には斡羅思とも兀魯思とも、地理志には阿羅思とあり。淸人の書には、鄂羅斯 厄羅斯 兀魯斯など書きしが、今は俄羅斯と書くことに定れり。いづれも蒙古語の斡囉思 兀嚕思を音譯したるなり。康熙 乾隆︀ 時代の書に羅刹とあるは、佛書の羅刹に引附けたる惡口なり。)
馬札喇マヂヤラ 卽ち洪噶哩亞ハンガリア
馬札喇マヂヤラ(次の卷には馬札兒とあり、卽 今の洪噶哩亞なり。洪噶兒 人は、もと巴施客兒篤より出でたりと一般に信ぜられたる故に、主吠尼 喇失惕 等の史家は、洪噶兒 人をも巴施客兒篤と呼べり。阿不勒弗荅の引きたる亦奔 賽篤(第十三 世紀の人)は、珀徹捏固の北に住める異敎の民として巴施客兒篤を記したる後に、都︀納 河(荅紐卜 河)の畔 阿列曼也(獨逸︀ 人)の近處に住み亦思藍 敎に從へる突︀兒克 種の巴施客兒篤と云ひ、又 都︀納 河の畔に住める鴻固嚕思(洪噶兒 人)は、巴施客兒篤の同族にして阿列曼也より基督 敎を受けたりと云へり。普剌諾 喀兒闢尼は、今の如く洪噶哩亞の名を用ひ、かつ大 不勒噶哩亞に近き巴思咯兒惕は大 洪噶哩亞なりと云ひ、嚕卜嚕克も、帕思喀提兒の方言は洪噶哩亞のそれに同じと云ひ、大 洪噶哩亞と呼べり。嚕西亞