都︀荅而 兀朱 筭灘、乞都︀卜(吉兒篤庫)の兀魯兀乃 筭灘(囉克捏丁)、兀里兒の海︀牙 筭灘、阿剌汀(阿剌 額丁の領地)の禡拶荅而 筭灘、乞石迷(喀什米兒)の忽里 筭灘、天房(阿喇必亞)の巴兒筭灘(額只魄惕の將 別伊巴兒か)、密昔兒(米思兒、卽 額只魄惕)の可乃 筭灘(可刀の誤か、速勒壇 屈突︀思)、富浪(富㘓克)の兀都︀ 筭灘、石羅子(發兒思の都︀ 失喇思)の換斯干 阿荅畢 筭灘(西使記 擙〈[#「てへん+奥」は底本では「木+奥」。www.bjdclib.comの古代服飾文献に倣い「てへん+奥」に修正]〉思 阿塔卑、阿塔卑は發兒思の君の爵)。賓︀鐵(國の名に非ず、印度の產物)の加葉 筭灘、兀林の阿必丁 筭灘、乞里彎(彎は蠻の誤、客兒曼)の忽都︀馬丁 筭灘(科惕別丁)などあり。巴固荅篤の興亡の事は、洪鈞の報達 補傳に見ゆ。)それらの處トコロに我等ワレラ 出征シユツセイせん」と奏マウしければ、合罕カガン 悟サトりて、この言コトバに怒イカリ 息ヤみて、成吉思 合罕チンギス カガンは可ヨしとして勅ミコトあり、晃孩コンカイ 晃塔合兒コンタカル 搠兒馬罕シユルマカン 三人ミタリの箭筒士セントウシを恩賞オンシヤウして、阿荅兒斤アダルギンの晃孩コンカイ、朶龍吉兒ドロンギルの晃塔合兒コンタカル 二人フタリを「我ワが前マヘに居ヲれ」[とて畱トヾめて]、
斡帖格歹オテゲダイの搠兒馬罕シユルマカンを巴黑塔惕バクタトの民タミの處トコロに合里伯 莎勒壇カリベ シヨルタンの處トコロに出征シユツセイせしめたり。(朶龍吉兒の姓、始めてこゝに見ゆ。親征錄 元史 十三翼の戰の後に朶郞吉 部 來降の事あり、卽 朶龍吉兒なり。喇失惕は、者︀剌亦兒の分部 朶郞吉と云ひて、者︀剌亦兒 十部の一とし、錄の朶郞吉 札剌兒 部もその意なるを、元史に「若㆓朶郞吉㆒、若㆓札剌兒㆒」と二部に分けたるは非なり。斡帖格歹の姓は、外に見えず。輟耕錄 蒙古 七十二種の中に合忒乞歹とあるは、やゝ似たり。搠兒馬罕は、次の卷に綽兒馬罕とあり多遜は察兒抹昆と云ふ。親征錄 元史 本紀にはこの人 見えざれども、曷思麥里の傳に西域の大師 察罕とあるは、列傳 第七なる唐兀惕の察罕に非ずして、察兒馬罕の中略なり。又 續 通鑑 綱目 宋の理宗 寶祐︀ 六年(憲宗 八年)の條に
「初 蒙古 遣㆓宗王 旭烈㆒伐㆓西域㆒。至㆑是以㆓抄馬 那顏 郭侃㆒總㆓統諸︀軍㆒、前後平㆓西域 乞石迷 十餘國㆒、轉鬭萬里」とある抄馬 那顏を卜咧惕施乃迭兒は察兒抹昆なりと云ひたれども、察兒抹昆は、旭烈兀 西征の前 太宗 十三年に死したれば、旭烈兀の下に働くべき由なし。續綱目は何に據れりやと、郭侃の傳を見れば、「壬子、送㆓兵仗㆒至㆓和林㆒、改㆓抄馬 那顏㆒、從㆓宗王 旭烈兀㆒西征」とあり。この抄馬は、人の名に非ず。侃の祖︀父 郭寶玉の傳に、寶玉はもと金の將にて、野狐嶺の大敗の時、軍を率ゐて蒙古に降りて「授㆓抄馬 都︀鎭撫㆒、」太祖︀ 八年「復帥㆓抄馬㆒、從㆓錦州㆒出㆑燕、」侃の父 郭德海︀の傳に「大軍至、乃出降、爲㆓抄馬 彈壓㆒、從㆓先鋒 柘柏㆒西征」などありて、抄馬は、降附の軍の名、抄馬 都︀鎭撫 抄馬 彈壓 抄馬 那顏は、皆 官名なり。郭侃は、初 百戶となり、次に千戶に進み、今 改められて抄馬 那顏 卽 抄馬の長官となれり。續綱目の文は、郭侃の上に官名を冠したるなりけり。多遜に據れば、察兒抹昆の西征は、太宗 二年の事なれども、太祖︀の時にも「徹別 速不台の高喀速 山を越えたる後、又 蒙古の軍 三千人 東より來て、闊喇自姆の潰兵の聚れる喇亦の城を破り、撒哇 庫姆 喀山を荒し、西は哈馬丹を焚き、阿在兒拜展に入り、喇亦の逃眾を敗り、その帖卜哩似に逃れたる者︀をば、阿在兒拜展の酋長に命じて縛り送らしめて、東に返れり」と云ひ