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​豁兒赤​​ゴルチ​ 三人の建議

​晃孩 豁兒赤​​コンカイ ゴルチ​、​晃塔合兒 豁兒赤​​コンタカル ゴルチ​ ​搠兒馬罕 豁兒赤​​シユルマカン ゴルチ​、この​三人​​ミタリ​の​箭筒士​​セントウシ​は、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​奏​​マウ​さく「​雛​​ヒナ​なる​鷹​​タカ​の​調習​​テウシフ​にやつと​入​​イ​りたる​如​​ゴト​く、​子​​ミコ​だちはやつとかく征伐を​學​​マナ​び​居​​ヲ​る​時​​トキ​、​子​​ミコ​だちを​退​​シリゾ​くるが​如​​ゴト​くいかんぞかく​叱​​シカ​りませる。​子​​ミコ​だちは​懼​​オソ​れて​心​​コヽロ​を​落​​オト​さん。​日​​ヒ​の​沒​​イ​る​處​​トコロ​より​出​​イ​づる​處​​トコロ​に​至​​イタ​るまで​敵​​テキ​の​民​​タミ​あり。​我等​​ワレラ​を​脫孛都︀惕​​トボドト​の​狗​​イヌ​どもを​嗾​​ケシカ​けて​遣​​ヤ​らば、​敵​​テキ​の​民​​タミ​を、​我等​​ワレラ​は​皇天​​アマツカミ​ ​后土​​クニツカミ​に​力​​チカラ​を​添​​ソ​へられて、​金​​コガネ​ ​銀​​シロカネ​ ​段物​​タンモノ​ ​財​​タカラ​ ​民​​タミ​ ​住具​​ヂウグ​を​爾​​ナガミコト​に​持​​モ​ち​來​​コ​ん。(脫孛都︀惕は、脫孛惕の複稱にして、明譯に西蕃とあり。脫孛惕は、唐書の吐蕃、今の圖伯特 卽 西藏の民なり。

​禿別惕​​トベト​の名稱

吐蕃は、蓋 禿孛篤(篤は惕の濁音)を音譯せるなり。宋 遼 金 元の諸︀史、皆 吐蕃 又は土蕃の字を用ふれども、遼の興宗 重熙 十七年「鐵不得 國遣使來、乞本部軍助攻夏國、不許」と云へること、遼史 本紀 兵衞志 屬國表の三所に見えたり。この鐵不得は、卽 禿孛篤の轉なり。又 道宗紀に見えたる陳王 塗孛特 遊幸表に見えたる圖不得 泉を、殿本は皆 圖伯特と改めたり。國の名を取りて人の名 泉の名としたるにやあらん。經世 大典の圖には土伯特とあり、全く今の音に同じ。嚕卜嚕克 馬兒科 保羅は、帖別惕と云ひ、喇失惕は、禿卜別惕と云へり。亦奔 忽兒荅惕必馬速的を始として阿喇必亞の地理家は大抵 梯別惕と云ひし故に、今もその名にて世に聞ゆ。されどもその國人は、禿孛篤の名を忘れて、今は自ら孛篤の國と云ふ。脫孛都︀惕の狗は、蒙古人の雄雄しく猛きに譬へたるなり。禿別惕の國に驢馬ほど大なる猛き狗ありて、野牛を捕へ、豹と鬭ふことは、大佐 裕勒の馬兒科 保羅 紀行の第四十六章とその證注とに見ゆ。

​巴固荅篤​​バグダド​の​合里發​​ハリフア​

その​民​​タミ​と​云​​イ​へば、この西に​巴黑塔惕​​バクタト​の​民​​タミ​の​合里伯 莎勒壇​​カリベ シヨルタン​と​云​​イ​へるありと​云​​イ​へり。(巴黑塔惕は、巴固荅篤の訛にして、抹哈篾惕 敎徒の宗主なる合里發の都︀なり。趙汝适の諸︀蕃志に白達、元史 憲宗紀に八哈塔、地理志に八吉打とあり。郭侃の傳 常德の西使記に報達とあるは、馬兒科 保羅の巴兀荅思と呼べるに音近し。合里伯は、合里發の訛にして、西使記に哈里法とあり。憲宗紀に三年 六月「命諸︀王 旭烈兀 及 兀良合台 等、帥師征西域 哈里發 八哈塔 等國、」八年 二月「諸︀王 旭烈兀、討回回 哈里發之、禽其王」とあるは、哈里發を國の名と誤りたるが如く聞ゆ。合里發は、英吉利思語に喀里甫と云ふ。

​速勒壇​​スルタン​の號の濫用

莎勒壇は、卽 速勒壇にて、合里發の册封を受けたる諸︀侯王の號なれば、合里發の下に附けたるは、誤れり。然れどもこの誤りは、祕史のみならず、元史 郭侃の傳にも合里法 筭灘とあり。蒙古人は、速勒壇の號を西域の君長 誰にも附くものと思へりと見えて、郭侃の傳に、木乃兮(木剌希荅)の將 忽