Page:成吉思汗実録.pdf/317

このページはまだ校正されていません
​三人​​ミタリ​の​子​​ミコ​だちを​咎​​トガ​めて​三日​​ミカ​ ​見​​マミ​えさせざりき。(親征錄に「三太子克玉龍傑赤 城、大太子還營所。寨(塔里寒)破後、二太子三太子始歸朝覲」と云ひ、喇失惕も「察合台 斡歌台は、闊喇自姆より來て成吉思汗に見え、拙赤は、闊喇自姆より行李を挈へて去れり」と云ひて、拙赤の去れる所 明ならざるを、多遜は、昔渾 河の北なる地方に殘れりと云へり。然れども拙赤いかに狼戾なりとも、軍に擁して外に駐まり太祖︀に會せざることは、事情に於てあるべからざることなれば、原本 祕史の非にして修正 祕史の是なりとも定め難︀し。)そこに​孛斡兒出​​ボオルチユ​ ​木合黎​​ムカリ​ ​失吉 忽都︀忽​​シギ クドク​(この三人の內、失吉 忽禿忽の軍中に居りしことは、論なし。字斡兒出は、外に見えざれども、西游記に、壬午の三月 十五日、長春 邪米思干を出立ちて、十八日 碣石 城を過ぎたる時、「預傳聖旨、令萬戶 播魯只、領蒙古 回乾 軍一千護送、過鐵門」とあり。播魯只は、卽 孛斡兒出なり。只 木合里は、太祖︀ 十二年 八月、太行 以南 經略の命を蒙りてより、十三年には河東に入り、十四年も河東に戰ひ、十五年 河北を定め、十六年 河西に入り、十七年 風翔を攻め、十八年 三月薨じて、西征の師には從はざれば、ここに木合里を加へたるは、誤りなり。

三大臣の諫言

​三人​​ミタリ​ ​奏​​マウ​さく「​服​​マツロ​はざりし​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​の​莎勒壇​​シヨルタン​を​平​​コトム​けて、​彼​​カレ​が​城​​シロ​どもの​民​​タミ​を​取​​ト​れり、​我等​​ワレラ​。​分​​ワカ​けて取らるゝ​斡權格赤​​オロンゲチ​の​城​​シロ​も、​分​​ワ​け​合​​ア​ひて​取​​ト​る​子​​ミコ​だちも、​都︀​​スベ​て​成吉思 合罕​​チンギス カガン​のものなり。​皇天​​アマツカミ​ ​后土​​クニツカミ​に​力​​チカラ​を​添​​ソ​へられて、​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​をかく​平​​コトム​けたる​時​​トキ​、​我等​​ワレラ​、​爾​​ナガミコト​のあまたの​男​​ヲトコ​ ​騸馬​​センバ​ ​歡​​ヨロコ​びて​馬孩​​マカイ​(動詞なれとも譯する能はず)てあり。​合罕​​カガン​は、​何​​ナン​ぞかく​怒​​イカ​りて​在​​イマ​せる。​子​​ミコ​だちは、​過​​アヤマチ​を​悟​​サト​りて​畏​​オソ​れたるぞ。​後​​ノチ​を​戒​​イマシ​めよ。[​然​​シカ​らずば]​子​​ミコ​だちは、​性行​​セイカウ​を​怠​​オコタ​らん。​恩賜​​オンシ​せば​見​​マミ​えさせば​可​​ヨ​からん」と​奏​​マウ​したれば、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​怒​​イカ​ ​息​​ヤ​みて、

太祖︀の訓誡

​拙赤​​ヂユチ​ ​察阿歹​​チヤアダイ​ ​斡歌歹​​オゴダイ​ ​三人​​ミタリ​の​子​​ミコ​だちを​見​​マミ​えさせて​聲​​コヱ​を​出​​イダ​し、​翁等​​オキナラ​​斡脫古思​の​辭​​コトバ​を​引​​ヒ​​斡兒乞惕​きて、​舊​​フル​​合兀臣​き​辭​​コトバ​を​尋​​タヅ​​合荅勒​ねて、​立​​タ​​巴亦黑三​ちたる​地​​トコロ​に​仆​​タフ​​巴黑塔阿勒荅​るゝまで、​額​​ヒタヒ​​莽來​の​汗​​アセ​を​拭​​ヌグ​​阿兒臣​ひ​敢​​ア​へぬまで​陳​​ノ​べて、​譴責​​ケンセキ​により​敎訓​​ケウクン​により​諭​​サト​して​在​​イマ​せる​時​​トキ​、