Page:成吉思汗実録.pdf/315

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れり。成吉思 汗は、塔列干より拖雷 罕に大暑︀の前に回れと云ひ遣りぬ。拖雷 罕は庫希思壇より庫姆者︀㘓 河を過ぎ、赫喇惕を取りて、回りて成吉思 汗に見え、兵を合せて、塔列干の堅き寨を攻め下し、この夏 全軍 塔列干に駐まれり。」多遜 曰く「一二二〇年の秋、成吉思 汗は、帖兒篾惕を攻め破り、薛曼に至り、軍を分け遣りて巴荅黑商を收め、拖雷を闊喇散を平げに遣り、一二二一年の春、只渾 河を渡り、巴勒黑を屠り、塔列干の山地に入り、奴思咧惕庫の寨を攻む。この寨は、先に將を遣り攻めさせたれども、六月の閒 下らざりしが、大軍 至りて攻め破れり。その夏は、塔列干に避暑︀せり。拖雷は、脫噶察兒を前鋒として、闊喇散に入りたり。脫噶察兒は、捏撒を屠り、一二二〇年の十一月、你沙不兒を攻めて戰死せり。一二二一年の二月、拖雷は、安篤恢を下し、馬嚕 沙希展を屠り、薛兒主克の速勒壇 散札兒の墓を發き、你沙不兒を砲撃して、その民を屠り、別軍を遣り、禿思に近き合里發 哈㖮 阿勒 喇失惕の墓を毀り、拖雷は、庫希思壇を荒し、赫喇惕を破り、塔列干に往き父に會せり。」

​帖兒篾惕​​テルメト​

錄の迭兒密は、喇失惕の帖兒篾似、多遜の帖兒篾惕にして、漢︀書 西域傳の都︀密、唐 西域記 新唐書 西域傳の呾蜜なり。元史 地理志に忒耳迷、薛 塔剌海︀の傳に帖里麻、通鑑 綱目に帖力迷とあり。帖兒篾惕の名は、費兒都︀昔の詩史に見え、亦思塔黑哩は、孛合喇 撒馬兒罕より(鐵門を經)巴勒黑に往く路にありと云へり。駙馬 帖木兒は、撒馬兒罕より巴勒黑に往く時、常に帖兒篾似にて阿木 河を渡れり。今 鐵門より巴勒黑に往く路の渡津は、それより西に移れり。嚕西亞の地圖に、帖兒篾似の遺址は、阿木 河の北岸にて速兒合卜 河の汭の西北 十一 英里ばかりにあり、巴勒黑の東北に當れり。

​巴勒黑​​バルク​

錄の班勒乾は、西史の巴勒黑にして、西游記に班里、西游錄に班城、元史 地理志に巴里黑、察罕の傳に板勒乾、明史 西域傳に把力黑とあり。速不台の傳なる必里罕、曷思麥里の傳なる阿剌黑も、巴勒黑の訛なるべし。この地は、いと古き名城にして、希臘の史家に據れば、古は巴克惕喇と名づけ、その州を巴克惕哩牙納と云へり。漢︀書の撲挑、後漢︀書の濮達、魏書の薄羅 薄提は、皆 巴克惕喇の訛略、周書の拔底延、新唐書の縛底野は、皆 巴克惕哩牙納の訛略なり。唐 西域記に「縛喝︀ 國、北臨縛芻 河。國大都︀城、周二十餘里、人皆謂之小王舍城也」とある縛喝︀は、卽 巴勒黑にして、巴勒黑の名の物に見えたる始なり。巴勒黑の落城は、喇失惕も多遜も、河閒 征服の年の翌年とすれども、下文に塔列干を落すに六七月かゝれりとあるに據れば、阿木 河を渡り、巴勒黑を取るは、その前年にあらざるべからず。親征錄に「破班勒紇 城、圍守 塔里[寒]寨〈[#返点の「一」と「寒」の括弧は底本では、なし。本節︀前述の同文に倣い修正]〉」を河閒 征服の年(辛巳は庚辰の誤)の秋の內に書きたるは、全く事實なるを、喇失惕は偶 誤りて翌春に移せり。察罕の傳に「察罕、西域 板勒乾 人也。父 伯德那、歲庚辰、國兵下西域、擧族來歸」とあるも、庚辰の年 巴勒黑 落ちたる時 擧族 歸附したるなり。

​塔列干​​タレカン​

錄の塔里寒は、西史の塔列干にして、巴勒黑の東に當れる坤都︀似の東邊にあり。古は泰干とも呼び、亦思塔黑哩の地理書に、巴勒黑の東、巴荅黑商に近く、脫合哩思壇の都︀ 泰干ありと云へり。中世の阿喇必亞 地理家は、巴勒黑の西、巴勒黑と篾嚕 阿勒 嚕篤(篾嚕察克)との間にも塔里干ありて、篾嚕 阿勒 嚕篤に屬せりと云ひ、脫合哩思壇にあるをば塔亦干と云ひたれども、額篤哩昔は、二つともに塔里干と云へり。唐 西域記の呾剌健、元史 地理志 經世 大典の圖にある塔里干は、西にあるものなり。東にある塔里干は、地理志にも見えざれども、馬兒科 保羅は、巴勒黑より東に十二日 行きたる時 泰干と云ふ寨に至れりと云へるは、この寨なり。一八三八年(天保 九年)烏篤そこを尋ねて、さびしき村なりと云へり。喇失惕(別咧津の譯せる)に據れば、塔列干の寨