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り、村の後の山 甚 高し。鐵門の外に通路なき故に、この路は、撒馬兒罕の南方の要害なり。印度より來る商人は、皆こゝを通る故に、帖木兒 伯克は、こゝにて關稅を多く收め得るなり。土人 曰く

門なき鐵門

「昔はこの峽路に鐵もて裹める大門ありき」と云へり。それより三日 行き、二十八日に喀施の大城に達したり。明史 西域傳に「渴石 西(南の誤)三百里、大山屹立、中有石峽。行二三里出峡口、有石門、色如鐵、番人號爲鐵門關。」蓋 元明 以來 鐵門は峽路の名となり、眞の關門なくなれるなり。克剌腓卓の後 四百七十一年の閒、歐囉巴 人この地に入らざりしが、

​馬也甫​​マエフ​の記

一八七五年(淸の光緖 元年、我が明治 八年)嚕西亞の陸軍 少佐 馬也甫は、阿木河 上游の右岸の地を探らんが爲に、喀兒失より拜孫に赴ける時、察克察 河の廣き溪を過ぎたれば、名高き鐵門の峽は目の前に現れたり。土人は今 不自果剌 合納(山羊の舍)と呼ぶ。峽の北の口に近き所にて、沙勒撒卜思(喀施)よりの路と喀兒失よりの路と合ふ。一八七八年(明治十一年)嚕西亞の將軍 思脫列脫甫は、阿富噶尼思壇の額米兒に使する路に鐵門を過ぎ、

​牙佛兒思奇​​ヤボルスキ​の紀行

隨行せる軍醫 牙佛兒思奇は、その「阿富噶尼思壇 孛合喇 紀行」に峡路の事を委しく述べたり。嚕西亞の突︀兒其思壇 大圖に據れば、峡路の長は一半 英里にして、西北より東南に向ひ、分水嶺を橫斷せり。畫の如き懸崖は路を挾み、峽の廣 三十步、或る處にてはたゞ五步なり。察克察 河は西北に流れ、北の口を出でて北に曲る。南の口の外に搠喇卜 小河あり。そこにて路 分れ、本道は東に曲り、口より五 英里ばかり離れたる所に迭兒邊篤あり、それより拜孫 希撒兒に至る。險しき細路は、南の方に別れ、失喇巴惕 阿木 河に至る。)​拖雷​​トルイ​の​處​​トコロ​に​使​​ツカヒ​を​遣​​ヤ​りぬ。(この事も、前の事と續かず。速勒壇の避暑︀處に避暑︀したるは、拖雷も一處にて、十五年 庚辰の夏なり。

​拖雷​​トルイ​の凱旋

拖雷を召し歸したるは、十六年 辛巳の春 太祖︀の軍 塔列干を圍み居る時なり。)「〈[#直前の「開き鍵括弧」は底本では「開き角括弧」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉​年​​トシ​ ​熱​​アツ​くなりぬ。​別​​ホカ​の​軍​​イクサ​どもは、​下馬​​ゲバ​するぞ。​汝​​ナンヂ​は​我等​​ワレラ​の​處​​トコロ​に​會​​クワイ​せよ」と​宣​​ノリタマ​ひて​遣​​ヤ​りたれば、​拖雷​​トルイ​は、​亦嚕​​イル​ ​亦薛不兒​​イセブル​ ​等​​ラ​の​城​​シロ​どもを​取​​ト​りて、​昔思田​​システン​の​城​​シロ​を​破​​ヤブ​りて、​出黑扯嗹​​チユクチエレン​の​城​​シロ​を​破​​ヤブ​り​居​​ヲ​る​時​​トキ​、​使​​ツカヒ​はこの​言​​ミコト​を​致​​イタ​したれば、​拖雷​​トルイ​は、​出黑扯嗹​​チユクチエレン​の​城​​シロ​を​破​​ヤブ​ると、​回​​カヘ​り​下馬​​ゲバ​して​來​​キ​て、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​會​​クワイ​しぬ。(

親征錄 ​喇失惕​​ラシツド​ ​多遜​​ドーソン​ 三書の異同

親征錄に曰く「上進兵過鐵門、[遣]四太子、攻也里 泥沙兀兒 等 處城。上親克迭兒密 城、又破班勒紇 城、圍守 塔里[寒]寨。冬、四太子又克馬魯察葉可 馬盧 昔剌思 等城、復進兵。壬午春、又克徒思 慝察兀兒 等城。上以暑︀氣方隆︀、遣使招四太子速還。因經木剌夷 國大掠之、渡搠搠蘭 河、克野里 等城。上方攻塔里[寒]寨、朝覲畢、幷兵攻之。」喇失惕 曰く「蛇の年の秋、成吉思 汗は、帖木兒 合魯噶を過ぎ、拖雷 罕を闊喇散を平げに遣り、自ら帖兒篾似を攻め破り、撒曼に至り、軍を分け遣りて巴荅黑商を收め、只渾 河を渡り、翌年の春、巴勒黑を屠り、塔列干の寨を取り、又 奴思咧惕庫を攻めたれども、七月の間 下らず。拖雷 罕は、篾嚕察克の路を經て、篾嚕を取り、你沙不兒に至り、薛喇黑思 捏撒 禿思 札只㘓 等を取り、你沙不兒を取