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兒を速勒壇を追ひに遣り、三皇子を兀兒堅只に遣り、その秋、拖雷 汗と共に納黑舍卜に往き、路路 游牧して帖木兒 合魯噶を過ぎたり」と云ひ、多遜は「撒馬兒罕に駐まれる時、徹別 速不台を派遣し、一二二〇年の夏 皆を撒馬兒罕と納黑舍卜との間に過し、その秋 三皇子を派遣せり」と云へり。謂はゆる金の寨は、納黑舍卜の邊に在りしなるべし。帖木兒 合魯噶は、鐵門關の蒙語なり。元史に「夏四月、駐蹕鐵門關」と云へるは誤れり。

鐵門關の地理

この鐵門關は、撒馬兒罕の南にある峽路にして、撒馬兒罕より往くに路二つあり。南に向ひ喀施を、過ぐるは順路にして、西南に向ひ納黑舍卜に廻れば遠し。太祖︀は、金の寨に避暑︀したる故に、納黑舍卜の路を通れり。

喀施

喀施は、魏書 西域傳の伽色尼 國にして、隋書 西域傳に「史國、都︀獨莫 水南云云。俗同康國。北去康國二百四十里、南去吐火羅五百里、西去那色波 國二百里」唐 西域記に「從颯秣建 國西南行三百餘里、至羯霜那 國、唐曰史國。土宜風俗、同颯秣建 國。」新唐書 西域傳に「史、或曰怯沙、曰獨霜那、居獨莫 水南。西百五十里、距那色波。南四百里、吐火羅 也。隋大業中築乞史 城。」那色波は、卽 納黑舍卜なり。伽色尼 羯霜那 佉沙 乞史は、皆 一音の轉にして、喀施なる名の原なり。亦奔 好喀勒は、北宋の初に始めて喀施の名を記し、西游記には碣石、明史 西域傳には渴石と書けり。元の時、巴嚕剌思 氏 世世この地を領し、駙馬 帖木兒 こゝに生れたり。その山川 淸麗なるが故に、舍里 薛卜思 卽 綠城の名あり。今は略きて舍勒と云ふ。城の傍を流るゝ小河 卽 隋書 新唐書の獨莫 水を今 喀施喀 荅哩牙と云ふは、古名 喀施の遺れるなり。

納黑舍卜

納黑舍卜は、魏書の那識波 國にして、新唐書に「那色波、亦曰小史、蓋爲史所役屬」とあり。亦奔好 喀勒は「納黑沙卜は、喀施の山より二日路 離れたる野に在り」と云へり。元史 地理志に那黑沙不とあり。察合台の五世の孫 客珀克 汗、そこに宮殿 卽 喀兒失を築きたる故に、後世はその地を喀兒失と云ふ。

玄弉の鐵門の記

鐵門關は、喀施の南 五十五 英里にあり。唐 西域記 羯霜那 國の條に曰く「從此西南行二百餘里入山。山路崎嶇、谿徑危險。旣絕人里、又少水草。東南山行三百餘里、入鐵門。鐵門者︀、左右帶山、山極峭峻。雖狹徑、加之險阻。兩傍石壁、其色如鐵。旣設門扉、又以鐵錮。多有鐵鈴、懸諸︀戶扇。因其險固、遂以爲名。出鐵門、至覩貨邏 國。」新唐書 史國の條に「有鐵門山、左右巉峭、石色如鐵。爲關、以限二國、以金錮闔」と云へるは、西域記の文を約めたるなり。阿喇必亞の地理家 牙庫必(唐の末の人)は、鐵門を珀兒沙 語にて荅哩 阿漢︀と云ひ、城市の名とせり。亦奔 好喀勒の納黑沙卜より帖兒蔑惕に至る紀行の中にも鐵門あり。額篤哩昔(南宋の初の人)は、鐵門に一小邑ありと云へり。西游記に、壬午の年、長春は、撒馬兒罕より「三月十有五日啓行、四日(卽 十八日)過碣石 城云云。過鐵門、東南度山。山勢高大、亂石縱橫。眾軍挽車、兩日(卽 二十日)方至前山。沿流南行。五日(卽 二十五日)至小河、亦船渡。七日(卽 二十七日)舟濟大河、卽 阿母 沒輦 也。」一三九八年(明の洪武 三十一年)の春、駙馬 帖木兒、印度より師を班せる行程を

舍哩弗丁の紀行

舍哩甫 額丁の叙べたるに據れば、帖木兒は、阿木 河を渡りて、帖兒篾惕に二日 駐まり、三日 行きて、科魯噶(卽 鐵門)を過ぎ、巴哩克 河の邊に宿り、又 五日 行きて、喀施に入りたり。速勒壇 巴別兒も、鐵門を科魯噶と云へり。歐囉巴 人にて鐵門の事を記せるは、克剌腓卓より始れり。

克剌腓卓の紀行

一四〇四年(明の永樂 二年)、克剌腓卓は、喀思提勒の王 顯哩 第三の命を奉じて、帖木兒の朝に使せり。西曆 八月 二十二日、帖兒篾惕を發し、二十四日 河の岸に近き野に宿り、二十五日 高山の下に至れり。その山に鐵門と云ふ峽路あり。路傍の石壁は、人工にて削りたるが如く見え、山は兩方ともに甚 高く、路は平にして甚 深し。峽路の半に村あ