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中宗の時 大食の國に屬し、僖宗の時 撒曼 朝 興りて孛合喇に都︀し、宋の眞宗の時 撒曼 朝は西回紇の亦列克 罕に滅され、亦列克 罕の子孫は撒馬兒罕に都︀し、北宋の末に西遼 興りても、その屬國となりて河閒の地を統べ居たりしが、元の太祖︀ 八年、西回紇の末王 斡思曼は、速勒壇 抹哈篾惕に殺︀され、河閒の全土は闊喇自姆 朝に屬したり。

二城の攻め落し

この二城を太祖︀の平げたるは、撒馬兒罕は後にして、孛合喇は前なり。本書の叙事 顚倒せり。喇失惕 曰く「成吉思 汗は、旣に各軍を分け遣り、その子 拖雷を伴れ、沙漠の僻路を行き、翌年の春 孛合喇に至りて圍み攻めたり。守將 庫克 罕 等、眾を率ゐて遁れんとして打ち破られ、城民 降を請ひたれども、內堡は猶 抗禦し、兵民 三萬人 皆 死せり。春の末 撒馬兒罕に向へり。撒馬兒罕は、要害 堅固にして、突︀兒克(卽 康克里)の兵 六萬、塔只克の兵 五萬にて守りたれども、速勒壇 抹哈篾惕は旣に遁れて居らざりき。御營は庫克 撒唻に駐まり、拙赤 等の諸︀軍 皆 至り、五日の間 圍み攻めて、城 壞れ、兵民 多く屠られたり。」親征錄に曰く「辛巳、上與四太子追攻卜哈兒 薛迷思干 等城皆克之、大太子又攻克養吉干 八兒眞 等城。」

右軍の勝利

八兒眞は、元史 地理志に巴耳赤刊とあり。喇失惕は、巴兒合里肯篤と綴りたれども、普剌諾 喀兒闢尼は巴兒沁と云ひ、小 阿兒篾尼亞の君 海︀團の紀行に帕兒沁とあるは、巴兒眞の方に音 近し。その遺址は確ならねども、列兒出の云へる「巴兒眞の名ある古錢」は、その地にて鑄たるものなるべし。喇失惕 曰く

左軍の勝利

「拙赤の一軍は、昔固納克を屠り、斡自肯篤 巴兒合里肯篤を降し、額施納思を破り、氈篤を取り、兵を分けて養吉罕篤を取れり。又 阿剌克 那顏 等の三將は、別納客惕に克ち、闊氈篤に克てり。」昔固納克は、海︀團の紀行に薛固納黑とあり。列兒出の「突︀兒其思壇 考古 游歷」に據れば、その遺址は、失兒 河の濱なる主列克 砲臺の東南 四十二 嚕里、河より十八 嚕里 離れたる處に在り、今 速納克 庫兒干と云ふ。斡自肯篤は、失兒 河の下流にあり、弗兒嘎納の兀自肯篤と異なり。拙赤の氈篤 養吉罕篤を取れるは、察合台 斡歌台の斡惕喇兒を破り、阿剌黑 等の闊氈篤に克ち、太祖︀の孛合喇に向へると大抵 同時にして、三路の軍は、各その使命を畢へたる後、大軍に會して共に撒馬兒罕を圍めり。親征錄 集史は、誤りて此等の戰を太祖︀ 十六年 辛巳の事としたれども、多遜は主吠尼に據り、一二二〇年(十五年 庚辰)の事とせり。

元史の重複

元史は「十五年庚辰春三月、帝克蒲華 城。夏五月、克尋思干 城」と云ひ、又「十六年辛巳春、帝攻卜哈兒 薛迷思干 等城、皇子 朮赤 攻養吉干 八兒眞 等城、竝下之」と云へり。庚辰の蒲華 尋思干は、前年 己卯の訛荅剌と共に、西游錄と譯字 全く同じければ、蓋 西游錄の原本に據りて書けるならん。今の西游錄は、盛如梓の節︀錄したるにて、全本に非ざれば、此等の記事なし。辛巳の卜哈兒 薛迷思干養吉干 八兒眞は、庚辰の也石的石(也兒的石の誤寫)斡脫羅兒と共に、親征錄に據れること甚 明なり。)そこに​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​巴剌​​バラ​を​待​​マ​たんと(この一句は、不都︀合 極まる聱疣なり。撒馬兒罕を取りて避暑︀したるは、十五年 庚辰の夏なり。巴嚕安 原に避暑︀して巴剌を待ちたるは、十七年 壬午の夏なり。

金寨嶺の避暑︀

​金​​コガネ​の​寨​​トリデ​の​嶺​​ミネ​なる​莎勒壇​​シヨルタン​の​避暑︀處​​ナツヨケドコロ​に​避暑︀​​ナツヨケ​して、(金の寨は、蒙語​阿勒壇 豁兒罕​​アルタン ゴルカン​。土人は何と云ひしか、知らず。親征錄には「是夏、上駐軍於西域 速里壇 避暑︀之地」と云ひて、その秋 三皇子を玉龍傑赤に派遣したることを叙べ、「於是上進兵過鐵門關」と云ひ、喇失惕は「その夏、成吉思 汗は、撒馬兒罕の境內に駐まり、者︀別 速不台 脫噶察