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古の康居の國なりと思へるに由り、月氏のそこに遷りたるは近世の事ならんと考へて、匈奴を突︀厥と改め、史記 漢︀書に明記せる月氏 西遷の事を忘れたるなり。新唐書の西域傳は「康者︀、一曰薩末韃、亦曰颯秣建、元魏所謂 悉萬斤 者︀」と云ひて、康居なりとは云はざれども、月氏を破れるものを匈奴とせずして突︀厥としたるは、舊唐書に同じ。「高宗永徽時、以其地康居 都︀督府」とあるを見れば、高宗の朝臣も、貞觀の(隋書を作れる)史官の誤を承けて、康國と康居とを混じ居たるなり。又 新唐書は、史國 卽 羯霜那を康居の小王 蘇薤 城の故地なりとし、何國 卽 屈霜你迦を康居の小王 附墨︀ 城の故地なりとし、安國 卽 捕喝︀を康居の小王 屬城の故地なりとせり。されども屈霜你迦は、貴霜匿とも云ひ、漢︀書に見えたる大月氏の五翕侯の一なる貴霜 翕候の故地にして、康居の故地に非ず。羯霜那 卽 今の舍勒も、捕喝︀ 卽 孛合喇も、皆 兩河の間に在りて、月氏の地なるを、妄に康居の故地としたるは、唐人のでたらめなり。又 唐人は、捕喝︀ 卽 孛合喇を漢︀の安息に當てて、安國と名づけ、何國と安國との間なる喝︀汗(喝︀捍)國を安息の木鹿 卽 篾嚕(今の篾兒甫)に當てて、東安と名づけ、顯慶 三年 遂に安を安息 州とし、東安を木鹿 州としたり。唐人の地理を誤れること かくの如し。然るに東西の史家は、新舊唐書のかく妄なるに心附かず、康居の五小王の故地まで實らしく列記せるを見て、月氏 康居の地を考ふるに迷へるもの多きに由り、序ながらこゝに辨じ置くなり。さて撒馬兒罕篤の篤を略きて呼ぶは、漢︀文の常なるが、馬兒科 保羅も、漢︀人より聞きなれたる爲にや、撒馬兒罕と云ひて、篤の音を略けり。中世の基督敎の傳道師は、この城を薛米思罕惕と云へり。耶律 楚材の庚午 元曆を進むる表に「庚辰、聖駕西征、駐蹕 尋思干 城。」西游錄に「訛打剌 西千餘里、有大城尋思干。尋思干 者︀、西人云肥也。以地土肥饒故以名。甚富庶。環城數十里、皆園林。飛渠走泉、方池圓沼、花木連延、誠爲勝槩。瓜大者如馬首。尋思干、乃 謀速魯蠻 種落、梭里檀 所都︀、蒲華 苦盞 訛荅剌 城皆隸焉。」尋思干の名は、早く遼史の天祚紀に見えたり。湛然居士集に又 尋罳虔と書き「尋罳、肥也。虔、城也」と譯し、元史 郭寶玉の傳には撏思干とあり。尋思も尋罳も撏思も、皆 薛米思にて、親征錄 元史 本紀 察罕 曷思麥里 等の傳に薛迷思干と書き、長春の西游記には、前に尋思干、後に邪米思干と書けり。薛米思は、突︀兒克 語に肥を謂ひ、罕篤は、珀兒沙 語に城を謂へば、楚材の解は善く當れり。西游記に辛巳の年「仲冬十有八日、過大河、至邪米思干 大城之北云云。其城因溝岸之。秋夏常無雨、國人疏二河城、分繞巷陌、比屋得用。方算端 氏之未敗也、城中常十萬餘戶。國破而來、存者︀四之一。其中大率多回紇 人。城中有岡高十餘丈、算端 氏之新宮據爲。」又 壬午の年「二月二日遊郭西。隨處有臺池樓閣、間以蔬圃。望日復遊郭西。園林相接百餘里、雖中原能過、但寂無鳥聲耳。」又 瓜を賞して「味極甘香、中國所無。間有大如斗者︀、十枚可重一擔」と云へり。

​孛合喇​​ボハラ​の異稱

元史 地理志に撒麻耳干、明史 西域傳に撒馬兒罕とあり。不合兒は、卽 孛合喇にして、これもいと古き名城なり。北史 西域傳に忸密とあるは、この地なり。隋唐の人は、安國と名づけ、新唐書 西域傳に「安者︀、一日布豁、一曰捕喝︀、元魏謂忸密、西瀕烏滸 河」とあり。捕喝︀と書きたるは、唐 西域記なり。西游錄は、蒲華と書きて「尋思干 西六七百里、有蒲華 城、土產更饒、城邑稍多」と云へり。親征錄に卜哈兒、元史 地理志に不花剌、察罕の傳に孛哈里、明史 西域傳に卜花兒とあり。今 嚕西亞 人は不哈兒と云ふ。

二古城の沿革

孛合喇 撒馬兒罕の二城は、上古より亦㘓の國に屬し、漢︀の初より大月氏に占據せられ、隋の世に西突︀厥に屬し、唐の高宗の時 暫く唐に屬し、