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の書に亦納勒主克 該兒 罕と云ひ、突︀兒罕 合屯の弟にして、太祖︀の使者︀を殺︀したる人なり。元史 本紀に「取訛荅剌 城、擒其酋 哈只兒 只蘭禿」とあり。二つの只の字は、蓋 皆 亦の誤にて、哈亦兒は哈亦兒 罕なるべく、亦蘭禿は亦納勒主克の訛なるべし。庫克 撒唻は、太祖︀ 撒馬兒罕を圍める時 御營のありし所なり。斡惕喇兒の城攻は、秋の末より始まりて六月を費やしたれば、落城したるは、翌年の春の末にて、正に太祖︀の撒馬兒罕を圍める時なり。親征錄の紀年は、喇失惕と同じく、一年づつ後れたれば、庚辰(太祖︀ 十五年)の秋「至斡脫羅兒 城、上畱二太子三太子攻守、尋克之」とあるは、城攻の始まりを云へるにて、「尋克之」と云へるは、翌年の事を終言したるなり。

元史 叙事の不都︀合

元史 本紀に十五年 庚辰「駐蹕 也石的石 河。秋、攻斡脫羅兒之」とあるは、親征錄に據りたるなれども、「尋克之」の尋の字を略きたる故に、秋攻めて秋克てることとなれり。又 本紀の叙事は、多くは親征錄に據りながら、又 紀年 正しき他の書に據りて、「帝率師親征」の下に、直に「取訛荅剌 城」と書きたる故に、叙事 重複せるのみならず、六月 師を出して、その月の內に斡惕喇兒を取れることとなり、最 不都︀合なり。

​孛合喇​​ボハラ​ ​撒馬兒罕​​サマルカン​の戰

​兀都︀喇兒​​ウドラル​の​城​​シロ​より​動​​ウゴ​きて、​薛米思加卜​​セミスカブ​の​城​​シロ​に​下營​​カエイ​せり。​薛米思加卜​​セミスカブ​の​城​​シロ​より​動​​ウゴ​きて、​不合兒​​ブカル​の​城​​シロ​に​下營​​カエイ​せり。(薛米思加卜は、下文に薛米思堅ともあり、撒馬兒罕篤の異名なり。撒馬兒罕篤は、中 亞細亞のいと古き名城にして、希臘の阿歷散迭兒 大王の至りたる馬剌罕荅は、卽この地なりと云ふ。

​撒馬兒罕​​サマルカン​の名稱 地理

漢︀書 西域傳に「大 月氏 國、治監氏 城」とある監氏は、撒馬兒罕篤の罕篤 又は罕荅の訛なるべし。魏書 西域傳に「悉萬斤 國、都︀悉萬斤 城、在迷密 西、其國南有山名伽色那 山」とあるは、撒馬兒罕篤を國の名として記せる始なり。迷密 伽色那は、唐 西域記の弭秣賀 羯霜那なり。唐 西域記に「颯秣建 國、唐曰康國。周千六七百里、東西長、南北狹。國大都︀城、周二十餘里。極堅固、多居人。異方寶貨、多聚此國。土地沃壞、稼穡備植。林樹蓊鬱、花菓滋茂。多出善馬。機巧之技、特工諸︀國。氣序和暢、風俗猛烈。凡諸︀胡國、此爲其中。進止威儀、近遠取則。其王豪勇、鄰國承命。兵馬强盛、多是赭羯」とあり。唐の初は、西突︀厥の屬國となりしかども、その猶 富强なりしを見るべし。隋書 西域傳に曰く「康國者︀、康居之後也。遷徙無常。不故地。然自漢︀以來、相承不絕。其王、本姓 溫、月氏 人也。舊居祁連山北昭武城。因匈奴 所破、西踰蔥嶺、遂有其國、支庶各分王。故康國左右諸︀國、竝以昭武姓、示本也。都︀於 薩寶 水上 阿祿迪 城、城多眾居。名爲强國、而西域諸︀國多歸之。」康國と云へるは、撒馬兒罕篤の罕の音を取りて單名となせるにて、弭秣賀を米國と云ひ、乞史を史國と云ひ、屈霜你迦を何國と云ひ、貨利習穆を穆國と云ひ、漕矩吒を漕國と云へると同例なり。薩寶 水は、今の咱喇甫山 河なり。匈奴に破られ云云は、史記 大宛の傳に「始 月氏 居燉煌祁連閒、及匈奴 所敗、乃遠去、過宛、西擊大夏而臣之、遂都︀嬀水北王庭」とあるを謂へるなり。嬀水(阿木 河)の北 卽 失兒 阿木 兩河の閒は、漢︀の初より月氏に屬したれば、康居の後なりと云へるは、甚 誤れり。月氏の事を叙べたる下文とも自ら矛盾せり。こは、たゞ康の字 同じきに由り附會したるなり。康居の地は大宛(今の弗兒嘎納)の西北にありて、今の乞兒吉思 曠野なり。舊唐書の西戎傳は、隋書に據りて「康國、卽漢︀ 康居 之國也」と誤り、又その「被匈奴所破」を「爲突︀厥所破」と改めて、更に誤を加へたり。蓋 舊唐書の作者︀は、康國は