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りき。抹哈篾惕の撒馬兒罕に遷りて後も、突︀兒罕は兀兒堅只に畱まりしが、蒙古の兵 孛合喇に向へる時、抹哈篾惕は、撒馬兒罕を去り、兀兒堅只に使を出して、母と妻とに馬贊迭㘓に敵を避けよと言ひ遣りたり。太祖︀ 撒馬兒罕を圍める時、人を遣りて突︀兒罕に降を勸めたれども、突︀兒罕 答へずして出で去り、馬贊迭㘓の山中なる亦剌勒の堡に隱れ、後 徹別 速不台の軍に虜︀へられたり。抹哈篾惕は、徹別 速不台の軍に追はれ、裏海︀の小島に入り憂死し、その子 者︀剌列丁 位を嗣ぎ、曼固施剌克より上陸して、兀兒堅只に入りたれども、康克里の將士に忌まれ、一二二一年 二月 十日 兀兒堅只を棄てて南に走れり。者︀剌列丁 去りて後 三日目に拙赤 等の軍は、兀兒堅只に近づきけり。

​拖雷​​トルイ​の​闊喇散​​コラサン​ 侵掠

​拖雷​​トルイ​を​亦嚕​​イル​ ​亦薛不兒​​イセブル​を​始​​ハジメ​とせる​多​​オホ​き​城​​シロ​どもに​下營​​カエイ​せよとて​遣​​ヤ​りぬ。(

​赫喇惕​​ヘラト​の舊名

亦嚕も亦薛不兒も、中世 闊喇散 四大城の一なり。(他の二は、巴勒黑 篾兒甫なり。)亦嚕は、親征錄に也里また野里と書き、元史 本紀に也里、烏古孫 仲端の北使記に益離また遺里とあり。卽 今の赫剌惕なり。古は阿哩牙と云ひ、中世は哈哩また赫哩と云ひ、大佐 裕勒の「喀台」(支那の交通)に附錄せる一三七五年の喀塔闌 地圖には額哩と見え、裕勒の作れる捏思脫哩宗の敎正 分擔の地圖にては哈喇と讀まる。明史 西域傳に「哈烈、一名黑魯、在撒馬兒罕 西南三千里、去嘉峪關一萬二千里、西域大國也。元駙馬 帖木兒、旣君撒馬兒罕、又遣其子 沙哈魯哈烈」とあるは、この地なり。

​你沙不兒​​ニーシャープール​の異文〈[#「你沙不兒の異文」は底本では「你沙不兒のの異文」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉

亦薛不兒は、正しくは你沙不兒また你沙普兒にして、親征錄に泥沙兀兒また慝察兀兒、元史 本紀に匿察兀兒、地理志に乃沙不耳、巴而朮 阿而忒 的斤の傳に你沙卜里、常德の西使記に納商とあり。曷思麥里の傳に你沙不兒と書けるは音 最 正しく、抹哈篾惕 敎徒の記錄に合ひ、又 地理志の乃沙不耳も、阿不勒弗荅の乃撒不兒に近し。されども阿不勒弗荅は又「珀兒沙 人は你沙兀兒と呼ぶ」と云へれば、諸︀書に兀と書けるも惡しからず。你沙不兒は、阿哩牙と共に古く開けたる所にて、希臘 囉馬の古書に你薛阿と云ひ、祆敎の古經に你賽阿と云へり。阿喇必亞 珀兒沙の記者︀は「薩散 朝の沙玻兒 王これを立てたる故に、王の名を取りて名とせり」と云へれども、附會の說なるべし。本書に亦嚕 亦薛不兒とあるは、蒙古人の頭韻を協はする癖あるより出でたる訛ならん。さて この派遣の事を、親征錄には、辛巳(太祖︀ 十六年)の秋「上進兵過鐵門關」の次に「四太子攻也里 泥沙兀兒 等處城」と云ひ、喇失惕は「蛇の年の秋、撒馬兒罕を發し、拖雷 罕と共に納黑舍卜に往き、帖木兒 合魯噶(鐵門)を過ぎ、拖雷 罕を闊喇散を平げに遣りたり」と云ひて、いづれも辛巳の事としたれども、多遜に據れば、一二二〇年(大祖︀ 十五年 庚辰)の秋なり。

​斡惕喇兒​​オトラル​の城攻め

​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​自​​ミヅカラ​ ​兀的喇兒​​ウヂラル​の​城​​シロ​に​下營​​カエイ​せり。(兀的喇兒は、前にも後にも兀都︀喇兒とあり、正しくは斡惕喇兒なり。耶律 楚材の西游錄に訛打剌、また訛荅剌、親征錄に斡脫羅兒、元史 本紀には訛荅剌とも斡脫羅兒ともあり、

​斡惕喇兒​​オトラル​の遺址

地理志には兀提剌兒、賈 塔剌渾の傳には斡脫剌兒とあり。その城 今は廢れたり。列兒楚の「突︀兒其思壇 考古 游歷」に據れば、失兒 荅哩牙の東の潀水なる阿哩思 河の汭の北 北緯 四十三度に近くその遺址ありと云ひ、嚕西亞の突︀兒其思壇 大圖には、阿哩思 河の汭の東北 六 英里ばかりにその遺址を標記せり。列兒楚は、一八六七年より前にその地を探りたり。さて斡惕喇兒の攻圍は、西 亞細亞 征服の手始なれば、太祖︀ 西征の初に書くべき事なるを、本書は誤りてこゝに書けり。喇失