さて巴嚕安 原の駐夏は、親征錄 元史 集史 皆 太祖︀ 十八年 癸未の事とせるは、例の一年後れにて、多遜の十七年 壬午としたるのみは、實を得たり。西游記に、辛巳(太祖︀ 十六年)閏 十二月の末、二太子(察合台)の言に「上駐㆓蹕大雪山之東南㆒」とあるは、太祖︀ 已に者︀剌列丁を敗り、正に信度 河の西岸に居りし時なり。又 壬午 正月 十三日、阿里鮮は、邪米思干(撒馬兒罕)を發し、「馳三日、東南過㆓鐵門㆒、又五日過㆓大河㆒、二月初吉、東南過㆓大雪山㆒、南行三日至㆓行宮㆒」とあり。然らば阿里鮮の阿木 河を過ぎたるは、正月 二十日にして、それより行宮までは僅に十餘日にして達したれば、十七年 二月 上旬には行宮 漸く北し、大雪山 卽 欣都︀庫施 山より三日路の處に至り、已に珀沙兀兒 喀不勒の閒にありき。又 長春は、その年 三月 十五日に邪米思干を發し、二十九日 大河 卽 阿母 沒輦を濟り、四月 五日 行在に達するを得たり。阿木 河より行在に達するに六日に過ぎざれば、四月 上旬には、太祖︀ 已に北に回り、欣都︀庫施 山に入り、謂はゆる母 小河 牝馬 小河の邊に在りしならん。また「時適炎熱、從㆓車駕㆒盧㆓於雪山㆒避㆑暑︀。上約㆓四月十四日 問㆒㆑道。將㆑及㆑期、有㆘報㆓回紇 山賊指斥㆒者︀㆖。上欲㆓親征㆒、因改卜㆓十月吉㆒。師乞㆑還㆓舊館︀㆒。上曰「再來不㆓亦勞㆒乎。」師曰「兩句可矣。」」遂に宣差 楊阿狗に送られて、邪米思干に還れり。「廬㆓於雪山㆒避㆑暑︀」は、卽 巴嚕安 原の駐夏なり。山賊 征伐は、親征錄の「討㆓近敵㆒悉平㆑之、」集史の「別嚕安の近處を平ぐる」を云ふ。「兩旬可矣」は、撒馬兒罕より行在まで二十日にて到るべきを云へり。太祖︀の行畱の年月は、唯 西游記に由りて委しく分りたり。この年 八月 以後の事は、更に下に言ふべし。)
者︀別ヂエベ 速別額台スベエタイの恩賞
者︀別ヂエベ 速別額台スベエタイ 二人フタリを甚イタく恩賞オンシヤウして「者︀別ヂエベ 汝ナンヂは、只兒豁阿歹ヂルゴアダイと云イふ名ナなりき。台赤兀惕タイチウトより來キて、者︀別ヂエベとなりたるぞ、汝ナンヂ。
脫忽察兒トクチヤルは、罕篾里克カンメリクの邊ホトリの城シロどもを己オノが心コヽロに依ヨり侵オカして罕篾里克カンメリクを叛ソムかせたり。法ハフに當アて斬キらしめん」と云イひ畢ヲへて、却カヘツて斬キらしめず、甚イタく責セめて、彼カレの軍イクサを知シることより罰ツミナひて下クダせり(明譯只重責罰タヾオモクセメツミナヒテ、不ズ㆑許ユルサ㆑管シルヿヲ〈[#ルビの「シルヿヲ」は底本では「ルヿヲ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉㆑軍イクサヲ。巴嚕安 原の駐夏の頃は、者︀別 速別額台は、已に高喀速 山を越えて、歐囉巴に入りたれば、太祖︀のこの賞罰は、この駐夏の時の事にあらずして、太祖︀ 十五年 庚辰の夏、三將 續きて罕篾里克の城を過ぎ、脫忽察兒の亂暴を罕篾里克より訴へられたる時の事なるべし。かくて脫忽察兒は、軍を知ることを罷めたる故に、者︀別 速別額台の二將のみ西の方に進みたり。
脫忽察兒は、その時 古兒只思壇の山民に殺︀されたりと喇失惕は云ひ、拖雷の先鋒として你沙不兒に戰死せりと多遜は云ひたれども、傳聞の誤ならん。元史 博爾忽の傳なる從孫 塔察兒は、卽 この脫忽察兒、卽 西史の脫噶察兒にして太祖︀ 崩じて後、太宗に從ひて金を伐ち、五年 癸巳 金帝を蔡に圍み、六年 甲午 金を滅し、十年 戊戌に卒したり。)