Page:成吉思汗実録.pdf/304

このページはまだ校正されていません

より​入​​イ​りて、​却​​カヘツ​て​彼等​​カレラ​を​敗​​ヤブ​りて​殺︀​​コロ​して、​不合兒​​ブカル​ ​薛米思加卜​​セミスカブ​ ​兀荅喇兒​​ウダラル​の​城​​シロ​に​彼等​​カレラ​を​合​​ア​はしめず、​勝​​カ​ちて​申 木嗹​​シン ムレン​に​到​​イタ​るまで​追​​オ​ひて​行​​イ​かれ、​申 木嗹​​シン ムレン​に​跳込​​トビコ​みて​入​​イ​るとなり、​多​​オホ​き​撒兒塔兀勒​​サルタウル​をそこに​申 木嗹​​シン ムレン​に​滅​​ホロボ​したるぞ。​札剌勒丁 莎勒壇​​ヂヤラルヂン シヨルタン​、​罕篾里克​​カンメリク​ ​二人​​フタリ​は、​命​​イノチ​を​助​​タスケ​かりて、​申 木嗹​​シン ムレン​に​泝​​サカノボ​り​逃​​ノガ​れたり。(この時 者︀剌列丁を追ひたるは、太祖︀ 親らなり。者︀別 速別額台は、抹哈篾惕 死し、者︀剌列丁 南に奔りたる後、亦喇克 以西の地を侵し、遂に乞卜察克の地に入り、申 木嗹の戰には加はらざれば、こゝに二將を引出したるは、大なる誤なり。不合兒 等の三城は、後に注すべし。申 木嗹は、唐 西域記の信度 河、卽 今の印度 河なり。申は信度の下略、木嗹は蒙語 河なり。親征錄に辛 自速 河とある自速は、目連の誤なり。親征錄に「上自塔里寒 寨、率精︀銳親擊之、追及辛 自速 河、獲蔑里 可汗、屠其眾。札蘭丁 脫身入河、泳水而遁」とあるを、元史に「帝自將擊之、擒滅里 可汗。札闌丁 遁去」と云ひて、河の名も云はざるは、いつもながら餘りに簡略なり。

集史なる信度 河の戰

喇失惕の集史には「失乞 忽禿忽 敗れて歸りたれば、成吉思 汗 自ら軍を率ゐて塔列干を出で、路を急ぎて、飯︀をも炊かず米を齧みながら行き、別嚕安の戰地に至り、敵 味方の陣處を問ひ、地を善く擇ばざりしことを責め、噶自納に至れば、者︀剌列丁は、已に十五日 前に去りたりき。一將を畱めて城を守らしめ、疾く追驅けたり。者︀剌列丁 已に船を備へ、明日 信度河を渡らんとする處へ、成吉思 汗 夜 疾く行き、曉に追附きて取圍めり。者︀剌列丁を生捕らんと欲し、軍士に矢を發たざらしめ、兀克兒 古勒札 古都︀思 古勒札 二將をして敵の後を絕たしむ。(古都︀思 古勒札は、祕史 卷七 卷八に見えたる巴嚕剌思の忽都︀思 合勒潺なるべし。)敵兵 漸く退き河に至れば、その右翼を二將 烈しく攻め破り、罕篾里克を殺︀せり。者︀剌列丁は、中軍を率ゐ、晨より日中まで戰ひ、左右 兩翼 皆 破られ、中軍 僅に七百人となり、右に左に衝擊す。諸︀軍は令を奉じて矢を發たざる故に、者︀剌列丁は圍を衝破りて出で、胸甲を棄て、馬を躍らして(多遜は、二丈の崖より)信度河に入り、盾を負ひ、旗を攜へて泳ぎ去れり。成吉思 汗 感じ入り、諸︀子を顧みて「誰もかくこそありたけれ」と云へり」とあり。この戰は、巴嚕安の戰の續にて、親征錄 元史 集史は皆 壬午の年とすれども、倭勒甫は、一二二一年(辛巳の年)の秋とし、多遜は、その年の冬とせり。罕篾里克は、東西の諸︀史 皆この戰に殺︀されたりとすれば、札剌列丁と共に逃れたりとせるは誤ならん。)​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​申 木嗹​​シン ムレン​に​泝​​サカノボ​り​往​​ユ​きて、​巴惕客先​​バトケセン​を​掠​​カス​めて​去​​サ​りて、

​巴嚕安​​バルアン​ 原の駐夏

​母 小河​​ハヽ ヲガハ​ ​牝馬 小河​​メウマ ヲガハ​に​到​​イタ​りて、​巴嚕安 客額兒​​バルアン ケエル​に​下馬​​ゲバ​して、(巴惕客先の名は、​巴荅黑山​​バダクシヤン​に似たり。巴荅黑山は、唐 西域記に​鉢鐸創那​​バダクシヤナ​、元史 地理志に​巴達哈傷​​バダハシヤン​、淸人の書には​巴達克山​​バダクシヤン​