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その眾と康克里 人とを率ゐて者︀剌列丁に合ひ、勢 益 振ひ、蒙古の軍と別嚕安に遇へり。者︀剌列丁は自ら中軍を、罕篾里克は右翼を、賽弗丁 阿固喇克は左翼を率ゐ、終日 戰ひて決せず、明日 又 戰ふ。者︀剌列丁 眾を勵まして圍み攻め、失乞 忽禿忽 敗れ走り、死傷 夥しかりき。成吉思 汗これを聞きて憂ふる色なく、たゞ勝に狃れて戰を輕ずることを誡めたるのみなりき。者︀剌列丁は虜︀獲を分てる時、罕篾里克は、阿固喇克と駿馬を爭ひ、阿固喇克の面を策もて撾ちたるを、者︀剌列丁は、祖︀母の族人なりとて止めざりしかば、阿固喇克 怒り、部兵を率ゐて客兒曼の方に去れり。者︀剌列丁 勢 忽 弱り、又 蒙古の軍の至らんことを恐れ、噶自納に退き、信度 河を渡らんとせり」とあり。多遜は、一二二一年(太祖︀ 十六年 辛巳)の秋、成吉思 汗は塔列干を發して南に行き、失乞 忽禿忽を先鋒に遣り、その冬 巴嚕安の戰ありとし、罕篾里克を阿民馬里克に作り、突︀兒罕 合屯の弟なりと云へり。太祖︀の塔列干を發して欣都︀庫施 山を越えたるは、多遜の云へる如く十六年 辛巳の秋にして、親征錄 集史 元史の如く十七年 壬午の夏ならざることは、長春の西游記を以て證すべし。

西游記の月日の確實

そもそも西游記の記事の內には、辛巳の年(太祖︀ 十六年)客魯嗹 河の南岸を西に行ける時「五月朔亭午、日有之、旣衆星乃見、須臾復明。蝕西南、生東北」とあり、又 邪米思干の人は「此中、辰時食至六分止」と云ひ、金山の人は「已時食至七分」と云へりとあるに由り、その書の月日の確實なることは、極印を打たれたるものなり。この日食は、金史の天文志にも「興定五年五月甲申朔、日食」と記され、淮黎は、卜咧惕施乃迭兒の「支那 中世 旅行者︀」の序に、この日食は一二二一年 五月 二十三日 倫敦の午前 三時 四十五分の食 甚なることを推定して、長春の觀察の誤りなきことを云へり。さて長春は、十六年 辛巳の十月 二日 伊犁 河を濟りてより、西に行くこと十二日にして、西南の一山(喀思帖克 嶺)を越えたる時、

烏古孫 仲端の往還

「逢東夏使回、禮師於帳前。因問「來何時。」使者︀曰「自七月十二日朝。帝將兵追算端 汗印度。」」この使者︀は、金の宣宗の使 烏古孫 仲端にして、この年 七月の初に塔列干にて太祖︀に謁︀し、太祖︀の者︀剌列丁 速勒壇を追ひに出馬したるを見て辭し回れるなり。金史 宣宗紀に「興定 四年 七月、以烏古孫 仲端等使大元。五年十二月丁巳、禮部侍郞 烏古孫 仲端、翰林待制安庭珍使北還、各進一階」忠義傳に「仲端奉使乞和於大元云云。至西域、進見太祖︀皇帝、致其使事、乃還。自興定四年七月行、明年十二月還至」とあり。金の興定 五年は、卽 太祖︀ 十六年なり。劉祁の撰れる仲端の北使記に「至五年十月復命」とあるは、十の下二の字を脫せるなり。又 北使記に、四年十二月の初に北界(蒙古の地)を出で、五年 四月 上旬に西遼に至るとあるに據れば、仲端は、西遼より三月行きて、七月の初に行宮に朝し、辭し回り又 三月にして、十月中旬に西遼を過ぎて長春に逢ひ、又 二月にして復命したるなり。元史 太祖︀紀 十六年 辛巳の條に「金主遣烏古孫 仲端、奉國書和、稱帝爲兄。不允」とあるはよけれども、又 十七年 壬午の條に「秋、金復遣烏古孫 仲端來 請和、見帝 于 回鶻 國。帝謂曰「我向欲汝主授我河朔地、令汝主爲河南王、彼此罷兵、汝主不從。今 木華黎 已盡取之、乃始來請耶。」仲端 請哀。帝曰「念汝遠來。河朔旣爲我有、關西數城未下者︀、其割付我、令汝主爲河南王。勿復違也。」仲端乃歸」とあるは、前年に書くべき勅語をこの年に書き、仲端 再 至れりとして「復」の字を加へたるなり。)​者︀別​​ヂエベ​ ​速別額台​​スベエタイ​ ​脫忽察兒​​トクチヤル​ ​三人​​ミタリ​は

信度 河の戰

​札剌勒丁 莎勒壇​​ヂヤラルヂン シヨルタン​、​罕篾里克​​カンメリク​ ​二人​​フタリ​の​後​​ウシロ​