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馬兒罕を陷して、その秋 三皇子を闊喇自姆に遣り、成吉思 汗は拖雷と鐵門關を過ぎ、拖雷を遣りて闊喇散を攻めしめたり」と云へり。抹哈篾惕の追窮を命ぜられたる三將の內、脫噶察兒の名は、その後見えず。「徹別 速不台は、巴勒黑 你沙不兒 諸︀城を降し、路を分けて西に進みたれば、抹哈篾惕 窮迫し、裏海︀の小島に入りて病死せり。その子 者︀剌列丁 位を嗣ぎ、島より出でて、闊喇自姆に往きたれども、畱まること能はず、南に走りて噶自納に入りたり。馬の年(太祖︀ 十七年 壬午)の春、拖雷は闊喇散の諸︀城を平げて還り、成吉思 汗と兵を合せて塔列干の寨を攻め下し、察合台 斡歌台も、闊喇自姆を平げて至り會し、その夏 塔列干に駐れり」とありて、さて三將 追擊の初に遡り「三將の速勒壇を追ひし時、篾兒甫の酋長 罕篾里克は、使を遣りて降りたれば、成吉思 汗は「もし罕篾里克の地を經ば、侵すべからず」と三將に命じたり。徹別 速不台は、命の如く侵さず過ぎたるに、脫噶察兒 後れ至り、軍士 劫掠したれば、山居の人 拒ぎ戰ひ、脫噶察兒 陣歿せり。罕篾里克は、脫噶察兒の横暴なることを成吉思 汗に吿げ遣りて、衣服を贈︀りて謝したり。然れども懼れて安からず、者︀剌列丁の噶自納に奔れるを聞き、使を遣りて屬したり」と云へり。然らば脫噶察兒の軍士の劫掠は、速勒壇 抹哈篾惕を追ひて巴勒黑より你沙不兒に向へる時にして、喇失惕は、罕篾里克の者︀剌列丁に屬することを叙べんが爲に、者︀剌列丁の噶自納に奔れる後に至り追叙したるなり。然るを親征錄に札蘭丁を追へるが如く書けるは誤れり。されどもこの誤は、修正 祕史を誤譯したるにも非ず、原本 祕史より已に誤り居たるなり。

​多遜​​ドーソン​の異說

又 多遜の史には「一二二〇年(太祖︀ 十五年 庚辰)の春、孛合喇 撒馬兒罕を取り、徹別 速不台を遣り抹哈篾惕を追はしむ」とありて、脫噶察兒の事を云はず。さて「その秋、三皇子をば兀兒堅只を攻めに遣り、拖雷を闊喇散に遣りて徹別 速不台の後援を爲さしめたり。拖雷は、その冬 姊妹の夫 脫噶察兒を先鋒として捏撒に遣り、その城を屠りたる後、脫噶察兒は你沙不兒に至り、その已に降りたるを知らずして侵掠し、城兵に射殺︀されたり。一二二一年(太祖︀ 十六年 辛巳)の春、拖雷の軍は、篾嚕 沙希展(卽 篾兒甫)を降し、你沙不兒を破れる時、脫嚆察兒の妻は、萬人を率ゐて城に入り、人畜を屠りて夫の仇を報いたり」と云ひて、篾兒甫の酋長 罕篾里克の事は、名も見えず、諸︀書と異なり。多遜は、多く主吠尼に本づきたりと云へども、恐らくは誤あらん。たゞ癸未 以前 五年の間 紀年の正しきは、多遜の獨得なり。)​札剌勒丁 莎勒壇​​ヂヤラルヂン シヨルタン​、​罕篾里克​​カンメリク​ ​二人​​フタリ​は、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​迎​​ムカヘ​(逆戰)に​出馬​​シユツバ​しけり。

​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​の敗北

​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​前​​マヘ​に​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​ ​先鋒​​センポウ​に​行​​ユ​きけり。​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​と​對陣​​タイヂン​して、​札剌勒丁 莎勒壇​​ヂヤラルヂン シヨルタン​、​罕篾里克​​カンメリク​ ​二人​​フタリ​は、​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​を​敗​​ヤブ​りて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​處​​トコロ​に​到​​イタ​るまで​勝​​カ​ちて​來​​キ​つるに(親征錄「蔑里 可汗 懼、棄城走」の續に「忽都︀忽 那顏 聞之、率兵進襲。時 蔑里 可汗、與札蘭丁合。就戰不利、遂遣使以聞」と云ひ、元史 太祖︀紀 十七年 壬午の條に「夏、避暑︀ 塔里寒 寨。西域 主 札闌丁 出奔、與滅里 可汗合。忽禿忽 與戰 不利」とあり。集史に、馬の年の夏、太祖︀ 塔列干に居りし時「失乞 忽禿忽を三萬人にて者︀剌列丁を禦ぎに遣りぬ。罕篾里克は、