の傳に附記せる從孫 塔察兒ならんと考へらる。塔察兒の傳に西征に從へることを載せざるは、軍令に違ひて太祖︀に責められたる故に、その家傳に諱みて略かれたりしならん。)この三人ミタリを遣ヤるに、「外面ソトモに往ユきて速勒壇スルタンの彼方カナタに出イでて、我等ワレラを到イタらしめて夾攻ハサミセめん」と宣ノリタマひて遣ヤりぬ。者︀別ヂエベはかく往ユきて罕篾里克カンメリクの城シロどもを經ヘて動ウゴさず、外面ソトモを過スぎけり。その後ウシロより速別額台スベエタイも、その理由リイウに依ヨり動ウゴカさず過スぎけり。
その後ウシロより脫忽察兒トクチヤルは、罕篾里克カンメリクの傍カタハラの城シロども侵オカして彼カレの田禾タナツモノを掠カスめき。罕篾里克カンメリクは、城シロどもを侵オカされたりとて、背ソムき動ウゴきて、札剌勒丁 莎勒壇ヂヤラルヂン シヨルタンに合アひけり。(
速勒壇は抹哈篾惕 敎徒の王號にして、阿剌 額丁 抹哈篾惕 闊喇自姆 沙は、合里發の命をも受けずに僭稱せり、この時 抹哈篾惕 已に死し、その子者︀剌勒 額丁 卽 者︀剌列丁は、速勒壇の位を嗣ぎたり。札剌勒丁 莎勒壇は者︀剌列丁 速勒壇の訛なり。速勒壇は、西游錄に梭里檀、親征錄に速里壇、西游記 元史 郭寳玉の傳に筭端、郭侃の傳に筭灘、巴而朮 阿而忒の傳に鎖潭とあり。者︀剌列丁は、親征錄 元史 本紀に札蘭丁とあり。
罕篾里克は、巴而朮 阿而忒の傳に罕勉︀力とあり。喇失惕に據れば、篾兒甫の酋長にして、一國の罕に非ず。親征錄 元史 本紀に蔑里 可汗と云ひ、祕史 原文に罕と篾力克とを離し、語譯に皇帝 篾力克、文譯に篾力克 王と云へるは、皆 非なり。者︀別 等 三將の派遣は、太祖︀ 十四年 己卯の秋 攻擊の始まりし時の事に非ず。
親征錄に據れば、太祖︀ 已に失兒 河の畔なる諸︀城を下し、孛合喇 撒馬兒罕を平げ、拙赤 察阿歹 斡歌歹は兀兒堅只に克ち、拖雷は闊喇散の諸︀城を破り、太祖︀ 自ら阿木 河を渡り、巴勒黑を破り、壬午(太祖︀ 十七年)の春 塔列干の寨を破りたる後、「是夏、避㆓暑︀於 塔里汗 寨高原㆒、時西域 速里壇 札蘭丁 遁去。遂命㆓哲別㆒爲㆓前鋒㆒追㆑之、再遣㆓速不台 拔都︀㆒爲㆑繼、又遣㆓脫忽察兒㆒殿㆓其後㆒。哲別 至㆓蔑里 可汗 城㆒、不㆑犯而過。速不台 拔都︀ 亦如㆑之、脫忽察兒 至、與㆓其外軍㆒戰。蔑里 可汗 懼、棄㆑城走」とあり。この文の大意は、祕史と異ならず。然れども喇失惕の集史に據れば、三將の派遣は、者︀剌列丁を追はんが爲に非ずして、抹哈篾惕を追はんが爲なりき。集史の文は甚 委し。その略に曰く
「蛇の年(太祖︀ 十六年 辛巳)の春、成吉思 汗は、孛合喇を破り、諸︀軍を集めて撒馬兒罕を圍める時、速勒壇 已に南方に遁れたりと聞き、徹別 速不台を遣り、各 萬人にて追はしめ、脫噶察兒 巴哈都︀兒にも萬人にて續かしめ、戒めて曰く「彼もし强くはむかひて、汝等 力 足らずば、進まずして、速く我に吿げよ。彼 遁れば、穴に入るとも、窮めよ。過ぐる所にて、降る者︀は懷け、逆ふ者︀は壞れ。三年を期とし、迭施惕 乞魄察克より抹古里思壇に回り、我等に遇へ。汝等の後より、我 又 拖雷に闊喇散の諸︀城を平げしめ、拙赤 察合台 斡歌台に闊喇自姆の都︀を取らしめん。皇天の祐︀護に賴り、此等の事を成し畢へば、凱旋せん」と云ひて、三將を遣り、已に撒