に近く、商賈 百數は、祕史の百の使と數は合へり。喇失惕の四百餘人は、おまけあるに似たり。洪鈞の西域 補傳に多遜を譯して「太祖︀聞㆓逸︀者︀歸報㆒、驚怒而慟、免㆑冠解㆑帶、跪禱㆓於天㆒、誓㆓必雪㆒㆑恨。其時 古出魯克 餘孽猶未㆑靖︀、乃先遣㆓西域人 巴固喇㆒爲㆑使、偕㆓蒙古 官二人㆒往詰責、云云。王箠㆓死 巴固喇㆒、薙㆓蒙古 官鬚㆒釋歸、以辱㆑之、自聚㆓兵於 撒馬兒罕㆒」と云ひ、この下に蒙古の兵 篾兒乞惕の餘眾を逐へるもの、合米赤 河にて闊喇自姆の兵と衝突︀せる小戰あり。太祖︀紀には只「十四年己卯夏六月、西域殺︀㆓使者︀㆒、帝率㆑師親征」とあり。)
そこに也遂 合敦エスイ カトンは、成吉思 合罕チンギス カガンに建議ケンギして奏マウさく「合罕カガンは高タカ溫都︀兒き峠タウゲを越コえ、廣ヒロ斡兒堅き河カハを渡ワタり、長ナガ兀兒禿き出征シユツセイに出征シユツセイし、多オホ斡欒き國クニ兀魯思を平タヒラげんと思オモひ給タマへり。生ウマれたる只タヾ 命イノチあるものに長生トコヨなるは無ナかりき。大木オホキ揑兀列の如ゴトき爾ナが身ミ 傾カタム揑古思き去サらば、麻穰アサガラ揑惕客勒の如ゴトき國民クニタミを誰タレにか委ユダねん。柱ハシラ禿魯の如ゴトき爾ナが身ミ 倒タフ禿勒巴思れ去サらば、羣鳥ムラトリ禿牙勒の如ゴトき國民クニタミを誰タレにか委ユダねん。生ウマれたる四人ヨタリの駿スグれたる子ミコだちを、彼等カレラの誰タレをとか宣ノリタマふらん。子ミコだちに弟オトヽだちにあまたの民草タミグサに我儕ワレラ 小人シヅノメにも心附コヽロヅけてあらまほし。心附コヽロヅきたることを建議ケンギしたるなり。聖旨オホミコト 知シロしめせ(明譯皇帝クワウテイ 涉ワタリ㆓歷ヘテ 山川ヤマカハヲ㆒、遠去トホクサリテ 征戰セイセンシタマフ。若モシ 一日ヒトヒ 倘モシ 有アラバ㆑不ザルヿ㆑諱イマレ、四子ヨタリノミコノ 內ウチニテ 命オホセテ㆑誰タレニ 爲シタマハン㆑王キミト。可ベシ㆑令シム㆓眾人モトビトニ 先知マヅシラ㆒)」と奏マウしたれば、
成吉思 合罕チンギス カガン 勅ミコトあるには「合敦カトンの人ヒトにもあれど(婦人なれども)、也遂エスイの言コトバは、善ヨきよりも善ヨし。誰タレも弟オトヽども子コども汝等ナンヂラも孛斡兒出ボオルチユ 木合里ムカリ 等ラも、かくは建議ケンギせざりき。我ワレも先祖︀トホツミオヤ兀哩都︀思[の大業タイゲフ]を承繼ウケツ兀荅阿剌恢がざるに(承繼ぐべき人を定めざるに)、忘ワス兀馬兒塔れて居ヲりき。死シ兀忽艮額ぬることを得エられざるに、睡ネム溫塔喇りて居ヲりき」と宣ノリタマひて、「我ワが子コどもの兄アニは、拙赤ヂユチなるぞ。何ナニをか云イふ、汝ナンヂ。言イへ」と宣ノリタマへり。