Page:成吉思汗実録.pdf/289

このページはまだ校正されていません

り還りて、木華黎の部下に屬したるなりけん。

​合撒兒​​カツサル​の東略

​合撒兒​​カツサル​は、​北京​​ホクケイ​の​城​​シロ​を​取​​ト​りて、​主兒扯惕​​ヂユルチエト​の​夫合訥​​ブカヌ​を​降​​クダ​して、​路​​ミチ​にある​城​​シロ​を​取​​ト​ると、​合撒兒​​カツサル​は、​塔兀兒 河​​タウル ガハ​に​泝​​サカノボ​り​來​​キ​て、​大老營​​タイラウエイ​に​下馬​​ゲバ​して​來​​キ​ぬ。(

​木華黎​​ムホアリ​に降れる北京

北京の降服は、元史に據れば、木華黎の功なり。親征錄には、三合 拔都︀ 黃河を渡りて北に還れる後「金 元帥 尹荅忽監軍 斜烈、以北京來降」とありて、誰に降れりとも云はず。喇失惕の史に「撒兒主惕の撒木哈、黃河を渡り、西京に趨きたれば、西京の守將 因荅兒、罕撒兒 撒列 迎へ降れり」とあるに由り、洪鈞は「錄作北京、係誤」と云ひたれども、太祖︀紀には「十年乙亥二月、木華黎 攻北京、金元帥 寅荅虎 烏古倫 以城降。以寅荅虎畱守、吾也而權兵馬都︀元帥之」と云ひ、木華黎 吾也而 石抹 也先の傳に、その事 詳なれば、北京は誤らずして、西史の西京は却て誤れり。但 石抹 也先の傳には、北京を降す前に、奇計を用ひて東京を降したることを載せたるに、東京の守將を寅荅虎としたるは誤れり。

​寅荅虎​​インダク​の僚屬なる​烏古倫​​ウクルン​

又 太祖︀紀の寅荅虎 烏古倫を殿本は烏庫哩 伊勒都︀呼と改め、その考證に「考 烏庫哩 爲金之著︀姓。若是兩人、不一稱名而一擧姓。此事、宣宗本紀 未載。蘇天爵名臣事略、載「木華黎 攻北京。金守將銀靑嬰城自守。其將高德玉等殺︀銀靑、推烏古論 寅荅虎帥、未幾 以城降。」覈之續通鑑亦同。爲太祖︀九年事。年月雖符、而姓名則合。且以下文 寅荅虎 爲畱守文義之、其爲名氏顚倒疑。今據改」と云ひ、畢沅の續 資治 通鑑の考異に「疑載筆者︀未烏古論 爲姓、寅荅虎 爲名、文有顚倒耳、」錢大昕の諸︀史 拾遺にも「東平王世家作烏古倫 寅荅虎。烏古倫 者︀、寅荅虎 之氏、非兩人也。史臣不姓名、傎倒其文、遂若別有一人矣」と嘲りたり。然れども史天祥︀の傳に「乙亥、與大師 烏野兒、降其北京畱守 銀荅忽、同知 烏古倫」とあり。烏野兒は卽 吾也而、銀荅忽は卽 寅荅虎なり。烏古倫は、寅荅虎の僚屬なるを、寅荅虎はその姓を略し、烏古倫はその名を佚して、本紀は又 烏古倫の官名を脫したる故に、遂に一人ならんと疑はしむるに至れり。明の史臣いかに史事に昧くとも、烏古倫の姓なることを知らざらんや。又 續 綱目 甲戌 九月の條に

銀靑 奧屯 襄

「木華黎 攻金北京。北京裨將 完顏 昔烈 高德玉等、殺︀守將銀靑云云、」木華黎の傳にも「其下殺︀銀靑」とあり。錢大昕の考異に「銀靑、蓋擧其官名、謂銀靑光祿大夫、非人姓名也」と云へり。今 金史 奧屯 襄の傳を見るに「貞祐︀三年正月、襄爲北京宣差提控 完顏 習烈 所害」とあり。習烈は、卽 續 綱目の昔烈、又 卽 親征錄の斜烈、奧屯 襄は、卽 謂はゆる銀靑なり。北京の降れるは、元史 紀傳みな乙亥の年なるを續 綱目に甲戌の年としたるは、名臣 事略に因りて誤れるなり。

​合撒兒​​カツサル​の東略につきての疑ひ

さて合撒兒の東征は、元史に據れば、遼西 諸︀郡を取れるのみにして、北京を取れるは木華黎なるを、祕史に合撒兒 北京を取ると云へるは、傳聞の異辭なり。むしろ祕史の誤ならん。又 遼東の經略も、耶律 畱哥の傳に「歲壬申(太祖︀ 七年)太祖︀命按陳 那衍軍至遼東、畱哥 率所部之云云」とあれば、この按陳 卽 阿勒赤の東略は、卽 合撒兒に從ひて行きたるにやとも思はるれども、その年(七年 壬申)は、三道 侵掠の年(八年 癸酉)の前なれば、强ひて牽き合はせ難︀し。又 夫合訥を蒲鮮の訛とすれば、蒲鮮 萬奴の降りたるは、親征錄は九年 甲戌の四月とし、太祖︀紀は十一年 丙子の十月とし、相 去ること二年半にして、いづれも合撒兒に降ると云はず、その詳なることは、今 考ふべからず。