Page:成吉思汗実録.pdf/286

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蒙語なるべけれども、〈[#直前の読点は底本では句点]〉いづこを指せるか知らず。但この文 誤れり。金の宣の遷れる頃は、親征錄 元史に據るに、太祖︀は塞外に居りて、中都︀の邊に到らざりしなり。

​者︀別​​ヂエベ​の​關破​​セキヤブ​り

​者︀別​​ヂエベ​は、​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​の​關​​セキ​を​破​​ヤブ​りて、​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​を​守​​マモ​れる​軍​​イクサ​を​動​​ウゴカ​して​來​​キ​て、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​合​​ア​へり。(この時 居庸關には金の守兵なかりき)​阿勒壇 罕​​アルタン カン​、​中都︀​​チウト​より​出​​イ​づるに、

​中都︀​​チウト​の​畱守​​ルス​ ​合荅​​カダ​

​中都︀​​チウト​の​內​​ウチ​に​合荅​​カダ​を​畱守​​ルス​となし​任​​ヨサ​せて​去​​サ​りたりき。(太祖︀紀に「十年乙亥三月、金御史中丞李英等、率師援中都︀。戰于霸州、敗之、五月庚申、金中都︀畱守 完顏 福︀興 仰藥死、抹撚 盡忠棄城走、明安 入守之」とあり。この時の事は、金史の承暉(卽 福︀興)、抹撚 盡忠、李英、烏古論 慶壽 等の傳に甚 委しけれども、合荅の名は見えず。親征錄には金の畱守 哈荅 國和 等とあり。衝紹王紀 大安 三年に 西北路 招討使 粘合 合打、宣宗紀 貞祐︀ 三年に陝西 統軍使 完顏 合打あれども、この合荅なりとも見えず。)​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​中都︀​​チウト​の​金​​コガネ​ ​銀​​シロカネ​ ​財​​タカラ​ ​段物​​タンモノ​ ​何​​ナニ​にても​數​​カゾ​へしめに、​汪古兒​​オングル​ ​厨官​​カシハデ​、​阿兒孩 合撒兒​​アルカイ カツサル​、​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​ ​三人​​ミタリ​を​遣​​ヤ​りき。この​三人​​ミタリ​を「​來​​キ​ぬ」とて、​合荅​​カダ​は​迎​​ムカ​へ​接​​ウ​けんと、​金​​キン​あり​紋​​アヤ​ある​段物​​タンモノ​を​取​​ト​りて、​中都︀​​チウト​の​內​​ウチ​より​出​​イ​でて、​迎​​ムカ​へに​來​​キ​ぬ。

​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​の廉直

​合荅​​カダ​に​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​ ​言​​イ​へらく「​前​​サキ​にこの​中都︀​​チウト​の​物​​モノ​、​卽​​スナハチ​ ​中都︀​​チウト​は、​阿勒壇 罕​​アルタン カン​のなりしぞ。​今​​イマ​ ​中都︀​​チウト​は、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​のなるぞ。​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​物​​モノ​なる​段物​​タンモノ​を​背處​​カゲ​にて​柰何​​イカン​ぞ​偷​​ヌス​みて​持​​モ​ち​來​​キ​て​與​​アタ​ふる、​汝​​ナンヂ​。​我​​ワレ​ ​取​​ト​らず」と​云​​イ​ひて、​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​は​取​​ト​らざりき。​汪古兒​​オングル​ ​厨官​​カシハデ​、​阿兒孩​​アルカイ​ ​二人​​フタリ​は​取​​ト​りたり。この​三人​​ミタリ​は、​中都︀​​チウト​の​物​​モノ​ ​皆​​ミナ​を​數​​カゾ​へて​來​​キ​ぬ。そこに​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​汪古兒​​オングル​ ​阿兒孩​​アルカイ​ ​忽禿忽​​クトク​ ​三人​​ミタリ​に「​合荅​​カダ​は​何​​ナニ​をか​與​​アタ​へたる」と​問​​ト​へり。​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​ ​申​​マウ​さく「​金​​コガネ​あり​紋​​アヤ​ある​段物​​タンモノ​を​持​​モ​ち​來​​キ​て​與​​アタ​へき。​我​​ワレ​ ​言​​イハ​く「​前​​サキ​にこの​中都︀​​チウト​は、​阿勒壇 罕​​アルタン カン​のなりし