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西の間の關門にして、今の河南 陝州 閿鄕縣の西 六十 淸里、陝西 同州府 華陰縣の東 四十 淸里に在り。察卜赤牙勒は、居庸關の蒙語、前に見えたり。親征錄 元史 本紀に據るに、潼關を攻めたるは、撒兒只兀惕の撒木合 巴阿禿兒にして、太祖︀ 自ら出でたるに非ず。又 甲戌の年 者︀別の關に入りたることも、元史 親征錄に見えず。)​成吉思 合罕​​チンギス カガン​を​潼關​​トウクワン​の​口​​クチ​に​依​​ヨ​り[​進​​スヽ​み]たりと​阿勒壇 罕​​アルタン カン​ ​知​​シ​リて、​亦列​​イレ​ ​合荅​​カダ​ ​豁孛格禿兒​​ゴボゲトル​ ​三人​​ミタリ​に​軍​​イクサ​を​統​​ス​べさせて、「​軍​​イクサ​ ​塞​​フサガ​りて、​忽剌安 迭格連​​クラアン デゲレン​(譯すれば赤き帽、金史の謂はゆる山東の花帽軍)を​先鋒​​センポウ​とし​整​​トヽノ​へて、​潼關​​トウクワン​の​口​​クチ​を​爭​​アラソ​ひ、​峠​​タウゲ​を​勿​​ナ​ ​越​​コ​させそ」とて、​亦列​​イレ​ ​合荅​​カダ​ ​豁孛格禿兒​​ゴボゲトル​ ​三人​​ミタリ​を​軍​​イクサ​を​急​​イソ​がし​遣​​ヤ​りき。​潼關​​トウクワン​の​口​​クチ​に​到​​イタ​れば、​乞塔惕​​キタト​の​軍​​イクサ​は、​地​​チ​を​捲​​マ​きて​來​​キ​ぬ。(地の下、原文に誤字あり譯し難︀し。意を以て語を作れり。)​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​亦列​​イレ​ ​合荅​​カダ​ ​豁孛格禿兒​​ゴボゲトル​ ​三人​​ミタリ​と​立​​タ​ち​合​​ア​ひ(對戰し)て、​亦列​​イレ​ ​合荅​​カダ​を​動​​ウゴ​せり。

​拖雷​​トルイ​ ​出古​​チユグ​の奮戰

​拖雷​​トルイ​、​出古 古哩堅​​チユグ グリゲン​(卽ち卷八の赤古 古剛堅)​二人​​フタリ​は、​横​​ヨコ​より​衝​​ツ​きて、​忽剌安 迭格連​​クラアン デゲレン​を​退​​シリゾ​けて​到​​イタ​りて、​亦列​​イレ​ ​合荅​​カダ​を​動​​ウゴ​して​敗​​ヤブ​りて、​乞塔惕​​キタト​を​爛木​​クチキ​の​積​​ツモ​れる​如​​ゴト​く​殺︀​​コロ​せり。​乞塔惕​​キタト​の​軍​​イクサ​どもを​殺︀​​コロ​して​畢​​ヲ​はれたりと​阿勒壇 罕​​アルタン カン​ ​知​​シ​りて、​中都︀​​チウト​より​出​​イ​でて、​遁​​ノガ​れんと​南京​​ナンケイ​の​城​​シロ​に​入​​イ​りき。(金の南京は、古の大梁また汴梁、今の河南 開封府なり。)​殘​​ノコ​れる​彼等​​カレラ​の​軍士​​イクサビト​どもは、​痩​​ヤ​せて​死​​シ​ぬる​時​​トキ​、​己等​​オノレラ​の​閒​​アヒダ​にて​人​​ヒト​の​肉​​ニク​を​食​​ク​ひ​合​​ア​ひけり。​拖雷​​トルイ​ ​出古 古哩堅​​チユグ グリゲン​ ​二人​​フタリ​は​善​​ヨ​き​處​​トコロ​に​働​​ハタラ​けりとて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​拖雷​​トルイ​ ​出古 古哩堅​​チユグ グリゲン​ ​二人​​フタリ​を​大​​オホイ​に​恩賞​​オンシヤウ​せり。(金史 元史 親征錄に據るに、潼關の戰には、太祖︀ 親ら臨まざるのみに非ず、拖雷 出古 二人もそれに與りたりとは見えず。二人の相 攜へて奮戰したるは、親征錄 通鑑 續編に據るに、太祖︀ 七年 壬申 德興府を攻むる時にありき。又 潼關の守將は尼龎古 蒲魯虎にして、亦列 合荅など云へる人も見えず。親征錄に、金の通州の元帥 蒲察 七斤 來降(金史 元史に據るに、太祖︀ 十年 乙亥 正月)の後、丙子(太祖︀ 十一年)の前に「上駐軍魚兒濼、命