定威州境㆒、抵㆓黃河㆒、大掠而還。哈撒兒 及 斡津 那顏 拙赤䚟 薄刹 爲㆓左軍㆒、沿㆓東海︀㆒、破㆓灤薊等城㆒而還。上與㆓四太子㆒、馭㆓諸︀部軍㆒、由㆓中道㆒、遂破㆓雄莫 河閒 開淸滄景獻 濟南 濱棣益都︀等城㆒。棄㆓東平大名㆒不㆑攻、餘皆㆑望㆑風而拔。下㆑令北還。又 遣㆓木華黎㆒、回攻㆓密州㆒、拔㆑之。上至㆓中都︀㆒、亦來合」とあり。哈撒兒は、皇弟 拙赤 合撒兒なり。斡津 那顏は、太祖︀紀に斡陳 那顏とあり、翁吉喇惕の阿勒赤 古咧堅の子、德 薛禪の孫にして、元史 特薛禪の傳にその名 見えたり。拙赤䚟は、兀嚕兀惕の主兒扯歹なり。薄刹は、卽 薄察なり。孛囉忽勒の從孫 塔察兒 一名 倴盞は、薄察と音近きに由り、沈曾植は、薄察は塔察兒ならんと疑ひたれどもいかゞにや。太祖︀紀は、この三道の軍を叙べて、右軍は「取㆓保遂 安肅 安定邢洛磁相衞輝懷孟㆒、掠㆓澤潞遼沁 平陽 太原 吉隰㆒、拔㆓汾石嵐忻代武等州㆒而還、」左軍は「取㆓薊州 平灤 遼西 諸︀郡㆒而還、」中軍は「取㆓雄霸莫安 河閒 滄景獻深祁蠡冀恩濮開滑博濟 泰安 濟南 濱棣 益都︀ 淄濰 登萊 沂等郡㆒、復命㆓木華黎㆒、攻㆓密州㆒、屠㆑之。云云。帝至㆓中都︀㆒、三道兵還、合屯㆓大口㆒。是歲、河北郡縣盡拔、唯中都︀通順 眞定 淸沃 大名 東平 德邳海︀州十一城不㆑下」とありて、親征錄より委し。金史 宣宗紀を案ずるに、貞祐︀ 元年(太祖︀ 八年 癸酉)十一月、大元の兵 觀州を徇へ、(金の觀州は、卽 元の景州なり。)又 河閒府 滄州を徇へ、二年(太祖︀ 九年 甲戌)正月 辛未、彰德府を徇へ、(金 元の彰德府は、卽 古の相州なり。)又 益都︀府を徇へ、乙未、懷州を徇へ、二月 壬辰、嵐州を徇へたること見えて、末に「時山東河北諸︀郡失㆑守、惟 眞定 淸沃 大名 東平 徐邳海︀數城僅存而已。河東州縣、亦多殘燬」とあれば、三道の侵掠は、癸酉の十一月に始まりて、甲戌の二月に終りたるなり。親征錄 元史にその時月を明にせざるに由り、金史に據りて考へ見たり。又 金史 李英の傳に「貞祐︀ 三年 三月、英自㆓淸州㆒督㆓糧運㆒、救㆓中都︀㆒、」宣宗紀にも、その年「七月、詔㆓河閒孤城㆒、移㆓其軍民㆒、就㆓粟淸州㆒」とあれば、淸州は未 殘破せられざりき。親征錄 中軍の破れる諸︀城の中に淸州あるは非なり。淸は、滑の誤ならん。元史は「十一城不㆑下」の中に、金史は「數城僅存」の中に、いづれも淸州あり。)
者︀別ヂエベをば東昌トウシヤウの城シロを攻セめさせに遣ヤりたり。東昌トウシヤウの城シロに到イタりて、攻セめて取トりかねて、回カヘりて六宿ムトマリの地トコロに到イタりて、油斷ユダンせさせて、さて回カヘり奮フルひ、馬ウマを手テに牽ヒき(蒙語合兒闊脫勒壇カルコトルタン、明譯每ゴトニ㆑人牽ヒトヒキ㆓一匹從馬イツピキノトモウマヲ㆒)、夜ヨル 兼行ケンコウして、油斷ユダンし居ヲる處トコロに到イタりて、東昌トウシヤウの城シロを取トりき。(今の山東 東昌府は、元史 地理志に「唐博州、宋隸㆓河北東路㆒、金隸㆓大名府㆒、元初隷㆓東平路㆒、至元四年、析爲㆓博州路㆒、十三年改㆓東昌路㆒」とありて、
東昌の名は、元の世祖︀の時より始まりたれば、太祖︀の時その名なきのみならず、太宗の史臣もその名を書くべき由なし。然らばこの東昌の字は、明の史官の音譯を誤れるなるべし。
親征錄には、辛未(太祖︀ 六年)の秋、西京路の諸︀州を破れる次に「又遣㆓哲別㆒率㆑眾取㆓東京㆒。哲別 知㆔其中堅、難︀㆓以㆑眾墮㆒㆑城、卽引退五百里。金人謂㆓我軍已還㆒、不㆓復設㆒㆑備。哲別 戒㆓軍中㆒、一騎牽㆓一馬㆒、一晝夜馳還、急攻、大掠㆑之以歸」と云ひ、喇失惕もこれに同じければ、修正 祕史には東京とありしなり。太祖︀紀には、七年 壬申の末に月日まで揭げて「冬十二月 甲申、遮別