Page:成吉思汗実録.pdf/277

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に​至​​イタ​るまで​爛木​​クチキ​の​積​​ツモ​れる​如​​ゴト​く​殺︀​​コロ​して、(親征錄「癸酉、上復破之」の續きに「遂進軍至懷來。帥高琪、將兵與戰。我軍勝、追至北口、大敗之。死者︀不勝計」とあり。帥の上に脫字あり。元史 本紀には金の行省 完顏 綱 元帥 高琪とあり。高琪は、金史の朮虎 高琪なり。この時 金軍の總督は、完顏 綱にして、完顏 綱 徒單 鎰 朮虎 高琪の傳にみな「綱行省事於縉山、大敗」とあり。高琪は、この時 鎭州の防禦使にて元帥 右都︀監を權して居たれども、蒙古 人は元帥と云ひたるなり。懷來は、遼の奉聖州の屬縣、金の德興 府 嬀川縣、元の宣德府 奉聖州の屬縣、今の直隷 宣化府 懷來縣なり。錄は元代の名を以て記せり。北口は、卽 居庸の北口なり。縉山は、金の德興府の屬縣、今の宣化府 延慶州なり。

​居庸關​​キヨヨウクワン​の攻め破り

​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​の​關​​セキ​を​者︀別​​ヂエベ​ ​取​​ト​りて、​峠​​タウゲ​〈[#ルビの「タウゲ」は底本では「トウゲ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉どもを​奪​​ウバ​ひて​越​​コ​えて、(この文に據れば、北口より南口に出でたる如くなれどもさにあらず。親征錄に「時金人塹山築壁、悉力爲備。上畱怯台 薄察 等、頓軍拒守、遂將別眾西行、由紫荆口出。金主聞之、遣大將 奧敦、將兵拒隘、勿使平地。比其至、我眾度關矣。乃命哲別、率眾 攻居庸南口、出其不備破之、進兵與怯台 薄察 軍合」とあれば、南口より倒に北口に攻め上りたるなり。怯台は、卽 客台、八十八 功臣の第五十七、兀嚕兀惕の主兒扯歹の子なり。太祖︀紀に可忒と書けり。薄察は、太祖︀紀に薄刹とあり。趙柔の傳に「歲癸酉、太祖︀遣兵破紫荆關、柔以其眾降。行省 八札 奏聞、以柔爲涿易二州長官、佩金符」とある八札なるべしと沈曾植は云へり。紫荆口は、卽 紫荆關にて、直隷 易州の西 八十 淸里 紫荆嶺の上にあり。奧敦は、太祖︀紀に奧屯とあり。金史 章宗紀 衞紹王紀 李英の傳に烏古孫 兀屯とある人なるべし。元史は錄の文を節︀錄したれども、叙事 明瞭ならず。

​龍虎臺​​リヨウコダイ​の​駐蹕​​チウヒツ​

​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​失喇迭克​​シラデク​に​下馬​​ゲバ​せり。(失喇迭克は、漢︀名 龍虎臺、昌平州の西にあり。昌平 山水記に「居庸關 南、地勢高平如臺、廣二里、袤三里。元時、車駕巡幸上都、皆駐蹕於此。」畿輔 通志に「龍虎臺、在昌平州 西二十里。云云。舊志、臺在舊縣西十里、去京師百里、當居庸關之南」とあり。この臺は、いはゆる臺地にて、樓臺の臺にあらず。

​中都︀​​チウト​の城攻め

​中都︀​​チウト​を​攻​​セ​めて、(中都︀は、今の淸京にして、遼 南京と云ひ、金 中都︀と云ひ、元の世祖︀ 大都︀と改め、明の初 北平と云ひ、成祖︀ 北京と改め、淸の世祖︀ 定めて京師とし、俗には今も北京と云ふ。蒙文には中都︀とあるを、語譯には大都︀、文譯には北平と書けり。洪武の史臣、後の名を用ひて追稱したるなり。親征錄に「旣而又遣諸︀部精︀兵五千騎、合怯台 哈古 二將中都︀。上自率兵攻涿易二州、卽日拔之」とあり。怯台は、卽 兀嚕兀惕の客台、哈台は卽 合歹 古咧堅、八十八 功臣の末より第四に見えたり。涿易は、皆 金の中都︀路の屬州、涿州は今 順天府に隸し、易州は、直隷の直隸州なり。蒙古の關に入りたるは、太祖︀ 八年 癸酉の秋にして、金史 宣宗紀 貞祐︀ 元年(卽 太祖︀ 八年)十月「大元兵下涿州」とあれば、關に入りたる月に直に涿州を拔きたるに非ず。また卽日 二州を拔くは、いかにも速すぎたるに、喇失惕の史には「涿州を改めて二十日にて破れり」とあれば、錄の卽の字は、誤寫なるかも知れず。

河北 山西 山東の侵掠

​郡郡​​クニグニ​の​城​​シロ​どもに​軍​​イクサ​を​遣​​ヤ​りてて​攻​​セ​めさせたり。(親征錄に「乃分軍爲三道。大太子二太子三太子爲右軍、循太行而南、破保州 中山邢洛磁相輝衞懷孟等州、棄