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豐利 等縣を取れる事は、或書に據りて、六年 春に記し、親征錄に六年 秋として記せる「取昌桓撫等州」をば七年 春にまはせり。野狐嶺の戰は、察罕の傳の本づきたる記錄に據りて、六年 春に記し、親征錄に六年 秋として記したる獾兒觜 卽 野狐嶺の戰をば七年 春にまはせり。獾兒觜の戰に續きたる會合堡の戰は、金史 承裕の傳に據り、六年 八月に記し、地名も宣平の會河川として、親征錄には據らず。親征錄に據れば、七年 宣德府を破り、次に德興府に克ちたるを、元史は、宣德府に克つを八年 七月に記し、德興府を拔くをば、金國志に據りて、六年 九月に記し、又 或書に據りて、七年 九月に記し、その異名を用ひて奉聖州と云へるは、金國志に據れるにも似たり。さて後に親征錄の文を採りて、八年 七月 克宣德府の次に又 記し、親征錄の「後金人復收之、癸酉(八年)秋、上復破之」をば削れり。重複の最 驚くべきは、哲別の居庸關を破りたる事にて、金國志 金史 本紀に據りて、早くも六年 九月に記し、八年 七月に至り、親征錄に據り、懷來 居庸の戰を記せり。これらの重複あることを悟らずして元史を讀まば、何が何やら少も分らず、恰も諸︀葛 孔明の八陣 變化の中に入りたるが如くなるべし。

​野狐嶺​​ヤコレイ​の戰

​狐峠​​キツネタウゲ​に​依​​ヨ​り​越​​コ​えて、(蒙語​忽揑堅 荅巴​​クネゲン ダバ​、忽揑堅は狐、荅巴は峠なり。漢︀名は野狐嶺と云ひ、直隷 宣化府 萬全 縣の西北 三十 淸里、張家口の外に在り。畿輔 通志に「勢極高峻、風力猛烈、雁飛遇風輒墮地」とあり。この峠は、たゞ越えたるに非ず。親征錄に「上之將撫州也、金人以招討 九斤 監軍 爲奴 等大軍、設備於野狐嶺、又以參政胡沙軍爲後繼。契丹 軍帥、謀謂九斤曰「聞彼新破撫州、以所獲物賜軍中、馬牧於野。出不虞之際、宜速騎以掩之也。」九斤 曰「此危道也。不馬步俱進、爲計萬全。」上聞金馬至、進拒獾兒 嘴。(この閒に金の使 石抹 明安の降れることを記せり。)遂與九斤戰、大破之。其人馬蹂躪死者︀、不勝計。因彼、復破胡沙 軍於會合堡。金人精︀銳、盡沒於此」とあり。九斤は、太祖︀紀に紇石烈 九斤、察罕の傳に定薛とあり。爲奴は、喇失惕の史に斡奴とあり。胡沙は、金史 列傳の承裕なり。獾兒嘴は、野狐嶺の北の口にあり。會合堡は、金史 本紀の會河堡にして、今の萬全縣の西に在りき。金國志には灰河、承裕の傳には會河川、木華黎 耶律 阿海︀の傳には澮河と書けり。木華黎の傳は、この戰の功を專に木華黎に歸して、「金兵號四十萬、陣野狐嶺北。木華黎 曰「彼眾我寡、弗死力戰、未破也。」率敢死士、策馬橫戈、大呼陷陣。帝麾諸︀軍竝進、大敗金兵、追至澮河、殭尸百里」と云へり。

會河堡の戰

會河堡の戰は、金史 本紀に「大安 三年 八月、千家奴 胡沙 自撫州退軍、駐宣平。九月、敗績于 會河堡。」承裕の傳に「八月、大元兵至野狐嶺、承裕 喪氣、不敢拒戰、退至宣平、云云。其夜南行。大元兵踵擊之。明日至會河川、承裕 兵大潰。承裕 僅脫身入宣德」とあり。宣平は、金の西京路 宣德州の屬縣にして、今の直隷 宣化府 懷安縣の東北にありき。撫州 野狐嶺 會河堡の戰は、親征錄 蒙古 集史 金國志 金史 本紀 諸︀傳みな太祖︀ 六年 辛未にあるを、元史 本紀は會河の戰のみを正しく六年 辛未に記し、撫州 野狐嶺の戰は、みな誤りて六年 辛未 七年 壬申の二所に記し、速不台 石抹 明安の傳は、誤りて壬申の年とし、木華黎の傳に至りては、壬申の年にある宣德 德興の戰を辛未として前に記し、辛未の年にある撫州 野狐嶺 澮河の戰を壬申として後に記せり。耶律 阿海︀の傳に烏沙堡 宣平 澮河の戰を辛未としたるは、善けれども、その年の內に「癸酉、拔宣德德興」の前に「遂出居庸、耀兵燕北」と書けるは非なり。

宣德 德興の攻め取り

​宣德府​​セントクフ​を​取​​ト​りて、(親征錄に「壬申(太祖︀ 七年)、