の分前ワケマヘとなして萬マンの民タミを與アタへたり。母ハヽは、不足フソクに思オモひて聲コヱをなさざりき。拙赤ヂユチに九千クセンの民タミを與アタへたり。察阿歹チヤアダイに八千ハツセンの民タミを與アタへたり。斡歌歹オゴダイに五千ゴセンの民タミを與アタへたり。脫雷トルイに五千ゴセンの民タミを與アタへたり。(元史の宗室 世系表に「太祖︀ 皇帝 六子、長 尤赤 太子、次 二 察合台 太子、次 三 太宗 皇帝、次 四 拖雷、卽 睿宗 也。次 五 兀魯赤、無㆑嗣、次 六 闊列堅 太子」とあり。拖雷まで四人は、光獻 翼聖 皇后の子なり。兀魯赤 闊列堅は、庶子にしてかつ幼き故に、分民なかりき。)合撒兒カツサルに四千シセンの民タミを與アタへたり。阿勒赤歹アルチダイに二千ニセンの民タミを與アタへたり。別勒古台ベルグタイに一千五百イツセンゴヒヤクの民タミを與アタへたり(世系表に「烈祖︀ 神︀元 皇帝 五子、長 太祖︀ 皇帝、次 二 撒只 哈兒 王、次 三 哈赤溫 大王、次 四 鐵木哥 斡赤斤、所謂 皇太弟 國王 斡嗔 那顏 者︀也。次 五 別里古台 大王」とあり。搠只 哈兒は、太祖︀紀に皇弟 哈撒兒、食貨志に搠只 哈撒兒 大王とあり。表の哈兒は、撒の字を脫したり。合赤溫は、早く死にたる故に、その子に民を與へたり。この阿勒赤歹も、亦魯該の親屬なる阿勒赤歹も、卷九なる額勒只吉歹とは名 稍 異なり。元史にも太宗紀に按赤帶、定宗 憲宗 世祖︀紀に按只帶とありて、阿勒赤吉歹と云へる事 無ければ、世系表なる按只吉台の吉の字は、恐らくは衍字ならん。)
荅阿哩台ダアリタイ(卷一の荅哩台 斡惕赤斤、太祖︀紀 荅力台、世系表 荅里眞、食貨志 太祖︀ 叔 荅里眞 官人)は、客咧亦惕ケレイトに與クミしたりとて「眼メの背處カゲに黜シリゾけん」と宣ノリタマへば、孛斡兒出ボオルチユ、木合黎ムカリ、失吉 忽禿忽シギ クトク 三人ミタリ 言イはく「己オノが火ヒを滅ケすが如ゴトく、己オノが家イヘを壞ヤブるが如ゴトく、爾ナガミコトの善ヨき父チヽの遺念カタミは、獨ヒトリ 爾ナガミコトの叔父ヲヂ 殘ノコりてあるを、いかんぞ棄スてん。彼カレの氣キを附ツけざりしことを勿ナ[想オモひ]そ。爾ナガミコトの好ヨき父チヽの末弟マツテイに營盤イヘヰの煙ケムリを立タてさせ合アひて居ヲれ」と云イはれて、鼻ハナ合巴兒より煙ケムリ忽泥 搶ツ康失くまで明アキラ合合思かに話ハナシされて(意 明ならざれども、明本 語譯に從へり、文譯には太祖︀タイソ 心下コヽロノウチ 辛酸クルシミテ)、「諾ウベナへり」とて、好ヨき父チヽを想オモひて、孛斡兒出ボオルチユ、木合里ムカリ、失吉 忽禿忽シギ クトク 三人ミタリの話ハナシにて靜シヅまりたるぞ(明譯怒イカリ 遂ツヒニ 息了ヤミタリ)。(好き父 以下は、叙事の文なり。原文