錄には吐麻 部、元史 本紀には禿滿 部とあり。兵志 三には火里 禿麻ともあり。)禿馬惕トマトの民タミの官人クワンニン 歹都︀忽勒 莎豁兒ダイドクル シヨゴル 死シにたれば、
その妻ツマ 孛脫灰 塔兒渾ボトクイ タルクン(孛脫灰 勇婦)は、禿馬惕トマトの民タミを知シりて居ヲりき。(歹都︀忽勒 莎豁兒は、明譯文に歹都︀禿勒とあり、忽を禿に誤り、莎豁兒を略けり。倭勒甫の書に塔禿剌克 速喀兒とあるは、音 稍 近けれども、剌克は、忽勒を倒にせるに似たり。親征錄に都︀剌 莎合兒とあるは、都︀の上歹 又は塔を脫し、剌の下 克の字を略けるなり。)
孛囉忽勒 那顏ボロクル ノヤン 到イタりて、三人ミタリにて大軍タイグンより前マヘへ步アユみ往ユきて、夕暮ユフグレに覺オボえず難︀カタき林ハヤシの中ナカに徑コミチに依ヨり步アユみたれば、彼等カレラの斥候モノミに後ウシロより脅オビヤカされて、徑コミチを阻ハヾみて、孛囉忽勒 那顏ボロクル ノヤンを拏トラへて殺︀コロしけり。禿馬惕トマトは孛囉忽勒ボロクルを殺︀コロせりと知シりて、成吉思 合罕チンギス カガン 甚イタく怒イカりて、自ミヅカら出馬シユツバせんとしたれば、孛斡兒出ボオルチユ、木合黎ムカリ 二人フタリは、成吉思 合罕チンギス カガンを止トヾまるまで諫イサめたり。
朶兒伯 多黑申ドルベ ドクシンの禿馬惕トマト 征服
却サテ 朶兒別惕ドルベト(朶兒邊の複稱)の朶兒伯 多黑申ドルベ ドクシン(親征錄 都︀魯伯、元史 朶魯伯)に任コトヨサし「軍イクサを嚴オゴソカに整トヽノへて、長生トコヨの上帝アマツカミに禱イノりて、禿馬惕トマトの民タミを降クダさんと試コヽロみよ」と勅ミコトありき。朶兒伯ドルベは、軍イクサを整トヽノへて、前サキに軍イクサの行ユきたる、斥候モノミの守マモりたる路ミチ 徑コミチの口口クチグチに、虛ムナしき勢イキホヒを張ハりて、紅アカき强牛キヤウギウ(野牛の一種)の行ユきたる路ミチに依ヨり、軍士イクサビトどもに號令ガウレイし、軍イクサの數カズある(數に具はれる)人ヒト、心 臆コヽロ ヲクせば打ウたんが爲タメに、人ヒトごとに十トヲの笞シモトを負マはせて、斧ヲノ 錛ホン(蒙語 兀哈里。義を知らず、明譯に從へり。錛は、字典に「音奔、平木器︀」とあれども、これも解り得ず。)鋸ノコギリ 鑿ノミなる人ヒト 毎ゴトの(人ごとに用ふる)器︀械キカイを整トヽノへさせて、紅アカき强牛キヤウギウの行ユきたる路ミチに依ヨり、路ミチに立タてる樹キどもを斷タち斫らせて、鋸ノコギらしめて路ミチをなして、山ヤマの上ウヘ