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使來獻名鷹」とありて、本書と異なり。別咧津は喇失惕を譯して「阿勒壇 不剌の二人 乞兒吉思に使し、まづ一部に至り」と云ひて、「部の名も酋長の名も文字 見えず」と注し、「次の一部を也迪 斡侖、酋長を兀嚕思 亦納勒と云ふ。二酋 厚くもてなし、阿里克 帖木兒 阿惕黑喇黑 二人を遣して白き獵鳥を獻れり」と云へり。錄の亦難︀、紀の亦納里は、亦納勒の訛なり。多遜は、喇失惕を引きて「亦納勒は、乞兒吉思にて酋長を稱する號なり」と云へば、也迪 亦納勒は、也迪 部の酋長と云ふことにて、兀嚕思 又は斡囉思は、その名なるべし。名の見えざる酋長は、阿勒迪額兒ならん。元史は、二つともに人の名を部の名に誤れり。阿里克 帖木兒は、額兒篤曼の譯に阿里別克 帖木兒とあり、卽ち斡列別克 的斤なり。祕史に無き一使を阿惕黑喇黑と云へるに據れば、錄の阿忒里剌は、黑を里に誤りたるにて、祕史の委兀惕の使を修正 祕史は乞兒吉思に移せるなり。

​失必兒​​シビル​ 以南 林民の降附

​失必兒​​シビル​ ​客思的音​​ケスチイム​ ​巴亦惕​​バイト​ ​禿合思​​トカス​ ​田列克​​テンレク​ ​脫額列思​​トエレス​ ​塔思​​タス​ ​巴只吉惕​​バヂギト​より​這廂​​コナタ​なる​林​​ハヤシ​の​民​​タミ​を​拙赤​​ヂユチ​ ​降​​クダ​して、​乞兒吉速惕​​キルギスト​の​萬戶​​バンコ​ ​千戶​​センコ​の​官人​​クワンニン​どもを​林​​ハヤシ​の​民​​タミ​の​官人​​クワンニン​どもを​伴​​ツ​れ​來​​キ​て、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​白​​シロ​き​海︀靑​​カイセイ​ども​白​​シロ​き​騸馬​​センバ​ども​黑​​クロ​き​貂鼠​​テウソ​どもをもて​見​​マミ​えさせたり。(

​昔別哩亞​​シベリア​の名の起り

失必兒は、今の昔別哩亞なり。喇失惕は、乞兒吉思の事を述べて「その國は、阿別兒 昔必兒の境に流るゝ安噶喇の大河まで廣がれり」と云ひ、元史 玉哇失の傳に「與海︀都︀ 將某某等於 亦必兒 失必兒 之地」とあり。篾撒列克 阿剌卜撒兒(第 十四 世紀の前半の人)は、昔必兒 卽 阿必兒と書き、亦奔 阿喇卜沙は「乞魄察克は、北は阿必兒 卽 昔必兒に界す」と云へり。合塔闌 地圖の北邊の薛不兒は、明に昔必兒を表せり。西紀 一三九四年より一四二七年まで亞細亞の諸︀國に遊び、帖木兒 大王の遠征にも伴ひし失勒篤別兒格兒の書きたるものには、亦必思昔不兒と云ふ國の名あり。然れどもこの昔必兒の名は、直に今の昔別哩亞となれるに非ず。第 十六 世紀の頃、亦兒的石 河の濱にて今の脫孛勒思克より四里 餘り河上に、昔必兒と云へる塔塔兒の城ありて、一五八一年に也兒馬克に取られ、その後 嚕西亞 人は、その名を採りて北亞細亞の總名に推廣めたり。客思的音は、親征錄に克失的迷とあり、卽 喇失惕の客思的米なり。田列克は、卷八に帖良古惕、親征錄に帖良兀とあり、卽 喇失惕の帖連郭惕なり。不咧惕施乃迭兒は「帖連古惕は、唐書の鐵勒より出でたるならん」と云へり。脫額列思は、卷八に脫斡列思とあり、卽 喇失惕の禿剌思なり。巴亦惕 禿合思 塔思 巴只吉惕は、未 考へず。

​巴只吉惕​​バヂギト​は​失必兒​​シビル​の西にある部落なり 卷十一なる​速別額台​​スベエタイ​ 西征の條に注あり

親征錄なる戊寅 朮赤 北征の條には「以不花先鋒、追乞兒吉思、至亦馬兒 河而還。大太子領兵涉謙河冰順下、招降不困 克兒 爲思 憾哈思 帖良兀 克失的迷 火因 亦而干 諸︀部」とあり。亦馬兒 河は知らず。謙河は卽 客姆 河、今の也尼塞 河の上流なり。不困 克兒 爲思は、讀み難︀し。恐らくは誤脫あらん。火因 亦而干は、祕史には槐因 亦兒堅とあり。槐因は林の、亦兒堅は民にて、林の民なり。卽 諸︀部の統名にして、部の名に非ず。

​斡亦喇惕​​オイラト​の​駙馬​​ムコギミ​ 兄弟

​斡亦喇惕​​オイラト​の​忽都︀合 別乞​​クドカ ベキ​を​迎​​ムカ​へ、「​先​​サキ​に​降​​クダ​り、​禿綿 斡亦喇惕​​トメン オイラト​を​牽​​ヒキ​ゐ