毎隨侍焉」とあり。抹歌は、卽ち この不合なり。元史 木華黎の傳には、帶孫ありて不合なし。不合の駙馬となれるを見れば、元明善の東平 忠憲王の碑に「親連㆓天家㆒、世不㆓婚姻㆒」と云へるは、誤れり。札剌亦兒は、孛兒只斤の同族に非ず。その皇室と婚したる人 少きは、他に故ある事なるべし。)
忽哩勒クリル(斡難︀ 河の戰に泰赤兀惕の一將、親征錄に忽憐、喇失惕の史に忽哩勒 巴哈都︀兒と云ひて、戰 敗れて乃蠻に奔れる人と名 同じけれども、蒙古の功臣に列することはあるまじ。憲宗の元年に前の阿勒赤 卽ち阿里出 等と同じく、諸︀王を誘ひて亂を爲せりとて誅せられたる曲憐は、この忽哩勒なるべし。)
阿失黑 古咧堅アシク グレゲン(後文に塔該 阿失黑の管する阿荅兒斤 云云とあれば、阿失黑は、速勒都︀思の塔該と同族なるべし。)
合歹 古咧堅カダイ グレゲン(元史 公主表 延安 公主 位の處に「火魯 公主、適㆓哈荅 駙馬㆒」とある哈荅なるべし。親征錄 癸酉 南征の役に「怯台 哈台 二將圍㆓中都︀㆒」とあり。その怯台は、兀嚕兀惕の客台にして、哈台は、この合歹なり。また本書 卷十二 太宗の時に、合歹は、宿衞の番直の官人 八人の中に加はれり。また多遜の史に、庫余克 汗(定宗)疾ありて、政事は大臣 鎭海︀ 喀荅克 二人に委ねたりしが、忙古 汗(憲宗)卽位の初、諸︀王 叛を謀りて黨與の誅せられし時、二人も殺︀されたりとありて、憲宗紀にも、諸︀王を亂に誘へりとて誅せられし諸︀臣の內に合荅あり。合荅は、卽ち哈荅にて、又 卽ち合歹なるべし。火魯 公主は、公主表に誰の女とも云はず。食貨志に大雷 公主と云ふ人あり。錢大昕の考異に「大當㆑作㆑火、卽 火魯 也」と云へり。)
赤古 古咧堅チグ グレゲン(親征錄 赤渠 駙馬、元史 太祖︀紀 駙馬 赤駒、太宗紀 駙馬 赤苦。公主表 鄆國 公主 位の處に「禿滿倫 公主、適㆓赤窟 駙馬㆒」とありて、何帝の女とも何姓の人とも云はざれども、喇失惕 額丁の史には、太祖︀の第四の女 禿馬侖は、翁吉喇惕の阿勒赤 那顏の子 赤古 古兒干に嫁ぎたりと云へり。阿勒赤は、德 薛禪の子 光獻 皇后の弟、元史に國舅 按陳 那顏と云へる人にして、赤古は、按陳の長子、斡陳 納陳 等の兄なるべし。又 蒙韃 備錄に「三公主曰㆓阿五㆒、嫁㆓尙書令國舅之子㆒、」と云ひて、その尙書令のことは「按赤 那邪、見封㆓尙書令㆒、爲㆓成吉思 正后之弟㆒」とあれば、太祖︀の女にして阿勒赤の子に嫁ぎたるものあるを證すべし。洪鈞 曰く「特 薛禪 傳、但言㆔按陳 子 斡陳、尙㆓睿宗女㆒、必是史官失㆑載。阿五 異名無㆑考、或備錄有㆓訛字㆒」と云へり。)
阿勒赤 古咧堅アルチ グレゲンなる三ミつの千戶センコの翁吉喇惕 氏オンギラト ウヂ(親征錄に弘吉剌 部 安赤 那顏 三千騎、元史 太宗紀に按赤 那顏、成宗紀 元貞 元年の條に皇國舅 按赤 那演、劉伯林の傳に按眞 那延とあり。特 薛禪の傳に曰く「子曰㆓按陳㆒、從㆓太祖︀㆒征伐、凡三十二戰云云。歲丁亥、賜㆓號國舅 按陳 那顏㆒。云云。丁酉、賜㆓錢二十萬緡㆒。有㆑旨、弘吉剌 氏生㆑女、世以爲㆑后、生㆑男、世尙㆓公主㆒、毎歲四時孟月、聽㆑讀㆓所賜旨㆒、世世不㆑絕」と云ひ、公主表 魯國 公主 位も「魯國大長公主 也速不花、睿宗女也。適㆓皇國舅魯忠武王 按嗔 那顏 子 斡陳 駙馬㆒。魯國公主 薛只干、太祖︀ 孫女、適㆓斡陳 弟 納陳 駙馬㆒」より始まりて、阿勒赤の皇女を娶れることは、元史に見えず。されども多遜の史に「阿赤の本の名は、荅兒吉 古兒干なりしが、人は皆 阿赤 那顏と云ふ」とありて、阿赤は卽ち阿勒赤、古兒干は卽ち古咧堅なれば、國舅の號を賜はれる前は、古咧堅と呼ばれて、太祖︀の駙馬なりしを、本傳も公主表も書き漏せるなり。)
不禿 古咧堅ブト グレゲンなる二フタツの千戶センコの亦乞咧思 氏イキレス ウヂ(卽ち不圖、卷三より見え、濁水の誓に與り、親