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り、元史 忠義傳には伯八の祖︀父 明里 也赤哥、晃合丹 氏とあり。

​孛斡兒出​​ボオルチユ​

​孛斡兒出​​ボオルチユ​(阿嚕剌惕 氏、納忽 伯顏の子、四傑の一人、卷二より見えたり。元史 本傳に、博爾朮、阿兒剌氏、納忽 阿兒闌の子とあり、蒙古 源流には阿爾拉特の博郭爾濟 諾顏とあり。

​木合黎​​ムカリ​

​木合黎 國王​​ムカリ コクワウ​(札剌亦兒 氏、帖列格禿 伯顏の孫、古溫兀阿の子、四傑の一人、卷四より見えたり。元史 本傳に木華黎、札剌兒 氏、孔溫窟阿の子とあり、蒙古 源流に札拉伊爾の摩和賚とあり。

​豁兒赤​​ゴルチ​

​豁兒赤​​ゴルチ​(卽ち豁兒赤 兀孫 額不干、巴阿𡂰 氏、卷三より見えたり。

​亦魯該​​イルガイ​

​亦魯該​​イルガイ​(功臣の第五に列する程なれば、名高き人なるべきに、他の書に見えざるは訝し。又 札剌亦兒の阿兒孩 合撒兒は功勞 多き人なるに、功臣の中に見えざるも訝し。卷十に阿兒孩 合撒兒を阿兒孩とのみ書き、親征錄 元史 本紀にも阿里海︀とあるを見れば、この亦魯該は、阿兒孩の誤りにあらずやと思はる。蒙古字にては、アとイと形混らはしく、カイとガイとも誤り易し。

​主兒扯歹​​ヂユルチエダイ​

​主兒扯歹​​ヂユルチエダイ​(兀嚕兀惕 氏、卷四より見え、濁水の誓に與れり。元史 本傳に朮赤台、兀魯兀台 氏とあり。

​忽難︀​​クナン​

​忽難︀​​クナン​(格你格思 氏、卷三に見えたり。

​忽必來​​クビライ​

​忽必來​​クビライ​(巴嚕剌思 氏、四狗の一人、卷三より見えたり。親征錄 元史 太祖︀紀には虎必來とあり。

​者︀勒篾​​ヂエルメ​

​者︀勒篾​​ヂエルメ​(兀哴罕 氏、札兒赤兀歹 額不堅の子、四狗の一人、卷二より見えたり。親征錄 元史 太祖︀紀には折里麥、忙哥撒兒の傳には兀良罕 哲里馬、蒙古 源流には烏梁庫特の濟勒墨︀とあり。

​禿格​​トゲ​

​禿格​​トゲ​(卽ち統格、札剌亦兒 氏、帖列格禿 伯顏の孫、赤剌溫 孩赤の子、木合黎の從弟、卷四に見えたり。

​迭該​​デガイ​

​迭該​​デガイ​(別速惕 氏、卷三より見えたり。

​脫欒​​トロン​

​脫欒​​トロン​(卽ち脫侖 扯兒必、晃豁壇 氏、蒙力克 額赤格の子、卷七に見えたり。元史 忠義傳に伯八の父 脫倫 闍里必、晃合丹 氏、明里 也赤哥の子とあり。

​汪古兒​​オングル​

​汪古兒​​オングル​(卽ち翁古兒、乞顏 氏、巴兒壇 巴阿禿兒の孫、蒙格禿 乞顏の子、卷三より見え、親征錄に雍古兒 寶兒赤とあり。

​出勒格台​​チユルゲタイ​

​出勒格台​​チユルゲタイ​(卽ち赤勤古台、速勒都︀思 氏、卷三に見えたり。

​孛囉忽勒​​ボロクル​

​孛囉忽勒​​ボロクル​(卽ち孛囉兀勒、宣懿 太后の養子、四傑の一人、卷四より見えたり。元史 本傳に、博爾忽、許兀愼 氏とあり。錢大昕の考異に「元明善の淇陽 忠武王の碑には許愼 氏に作り、孛朮魯 翀の河南 淮北 蒙古軍 都︀萬戶府の增修 公廨の碑には旭申 氏に作れり」と云ひ、輟耕錄の蒙古 七十二氏の中には忽神︀と書けり。その名も、太祖︀紀に博羅渾、孛羅歡、鉢魯完など書き、蒙古 源流には烏古新の博羅郭勒とあり。

​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​

​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​(卽ち失乞刊 忽都︀忽、塔塔兒の人、宣懿 太后の養子、卷四より見えたり。親征錄には忽都︀忽 那顏、蒙古 源流には塔塔爾の錫吉 呼圖克とあり。

​古出​​グチユ​

​古出​​グチユ​(卽ち曲出、篾兒乞惕の人、宣懿 太后の養子、卷三より見えたり。

​闊闊出​​ココチユ​

​闊闊出​​ココチユ​(別速惕 氏。宣懿 太后の養子、卷三より見えたり。

​豁兒豁孫​​ゴルゴスン​

​豁兒豁孫​​ゴルゴスン​(卷十に豁兒合孫とあり。元史 撒吉思の傳に火魯和孫とあるは、この人なり。

​許孫​​フスン​

​許孫​​フスン​(元史 列傳に哈散納、怯烈亦 氏と云ひて、濁水の誓に與れる人あり、その文は卷六の注に引けり。許孫は哈散と轉じ、竟に哈撒納となれるなるべし。

​忽亦勒荅兒​​クイルダル​

​忽亦勒荅兒​​クイルダル​(卽ち忽余勒荅兒、忙忽惕 氏、卷四より見え、元史 本傳に畏荅兒、忙兀 氏、畏翼の弟とあり、食貨志に慍里荅兒 薛禪ともあり。合剌合勒只惕の戰に傷を負ひて已に死にたれば、このたびの任命は、贈︀官にして、卷九なる勅語に依れば、千戶の職はその子孫に襲がせたるなり。

​失魯孩​​シルカイ​

​失魯孩​​シルカイ​(元史 麥里の傳に「麥里、徹兀臺 氏。祖︀ 雪里堅 那顏、從太祖︀、與王罕戰、同飮班眞 河