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合兒魯兀惕 は、親征錄 元史 本紀に哈剌魯、地理志に柯耳魯、卽ち唐書の葛邏祿にして、國は今の伊犁の西北にありき。委しくは卷十一に言ふべし。)​撒兒荅兀勒​​サルダウル​の​地​​トコロ​に​垂 河​​チユイ ガハ​に​居​​ヲ​る​合喇 乞荅惕​​カラ キダト​の​古兒 罕​​グル カン​に​合​​ア​ひに​往​​ユ​きけり。

​脫黑脫阿​​トクトア​の諸︀子の​奔竄​​ホンザン​

​篾兒乞惕​​メルキト​の​脫黑脫阿​​トクトア​の​子​​コ​ども​忽都︀​​クド​、​合惕​​カト​、​赤剌溫​​チラウン​が​頭​​カシラ​となれる​篾兒乞惕​​メルキト​は、(忽都︀ 赤剌溫は、前に見えたり。忽都︀は、速不台の傳に霍都︀、土土哈の傳に火都︀とあり。合惕は、下文に合勒とあり。元史 巴而朮 阿而貳 的斤の傳には「脫脫 之子 火都︀ 赤剌溫 馬札兒 禿薛干 四人」とありて、合惕 又は合勒に似たる名なし。元史 類︀編に親征記を引きて、脫脫の四子の名を擧げたるは、巴而朮の傳と同じけれども、今の親征錄には、只「脫脫 之子 四人」とありて、その名なし。洪鈞の別咧津を譯したるには、忽都︀、赤剌溫、赤攸克、呼圖罕 蔑兒根とあり。その呼圖罕を多遜は庫圖罕と書けり。不咧惕搠乃迭兒は、別咧津を引きて、脫克塔の六子の名を擧げたるに、呼圖罕を呼勒圖罕と書けり。合惕は、呼圖罕 又は庫圖罕の下略にて、下文の勒は誤寫ならんか。又は合勒は、呼勒圖罕の下略にて、こゝの惕は誤寫ならんか。)​康鄰​​カングリン​を​欽察兀惕​​キムチヤウト​を​過​​ス​ぎ​去​​サ​りけり。(​康里​​カングリ​ ​欽察​​キムチヤ​〈[#ルビの「キムチヤ」は底本では「キチヤ」。実録続編のルビに倣い修正]〉の名は、元史に屢 見えたり。康里は、漢︀代の康居の遺種にして、康克里とも康合里とも云ひ、阿喇勒 湖の北、今の乞兒吉思 曠野の地に居りし人種なり。欽察は、下文には正しく乞卜察克ともあり、康里の西隣にて、今の露西亞の南部、佛兒戛 河の左右に廣がりし人種なり。)そこより​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は​回​​カヘ​りて、​阿唻 嶺​​アライ タウゲ​により​越​​コ​えて​舊營​​キウエイ​に​下馬​​ゲバ​せり。​沈白​​チンベ​は、​峯​​ミネ​の​寨​​トリデ​に​據​​ヨ​れる​篾兒乞惕​​メルキト​を​窮​​キハ​めき。

​篾兒乞惕​​メルキト​の​誅滅​​チウメツ​

そこに​篾兒乞惕​​メルキト​をば、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あり、​彼等​​カレラ​の​皆殺︀​​ミナゴロ​しを​殺︀​​コロ​さしめて、(皆殺︀しを行はしめての意なり)​彼等​​カレラ​の​殘​​ノコ​れるをば​軍士​​イクサビト​どもに​虜︀​​トラ​へさせたり。​又​​マタ​ ​先​​サキ​に​降​​クダ​りたる​篾兒乞惕​​メルキト​は、​舊營​​キウエイ​より​反​​ソム​き​起​​オコ​りき。​舊營​​キウエイ​に​居​​ヰ​たる​我等​​ワレラ​の​家人​​ケニン​ども、​彼等​​カレラ​を​敗​​ヤブ​りき。そこに​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あるに「​聚​​アツマ​りて​居​​ヲ​らしめんと​云​​イ​ひしに、​彼等​​カレラ​ ​只​​タヾ​ ​反​​カエ​きけり」とて、​篾兒乞惕​​メルキト​を​各​​オノに​盡​​ツ​くるまで​分​​ワ​けさせたり。


§199(08:06:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​鐵車​​テツノクルマ​の​勅​​ミコト​

 その​牛​​ウシ​の​年​​トシ​、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​ありて、​速別額台​​スベエタイ​を​鐵​​クロガネ​の