疊タヽ荅卜塔みあげたるもの、大針オホハリ帖別捏を刺サすに隙閒スキマ 無ナき我ワが帖木眞 安荅テムヂン アンダ、貪ムサボる鷹タカの如ゴトく、かく涎ヨダレ 垂タれ來キぬるのみ。見ミたりや、汝等ナンヂラ。乃蠻ナイマンの眾シウは「忙豁勒モンゴルを見ミば、子羊コヒツジの蹄皮テイヒも餘アマさじ」と云イひたりき。汝等ナンヂラ 見ミよ」と云イへり。(親征錄に「汝等 見㆓案荅 擧止英異㆒乎。乃蠻 語嘗有㆑言「雖㆓駁㆑革去㆒㆑皮、猶貪不㆑捨。」豈能當㆑之」と云へるは、こゝの語を譯して修飾を加へたるに似たれども、文は甚だ蹇拙なり。元史に「乃蠻 初擧㆑兵、視︀㆓蒙古 軍㆒、若㆓羖䍽羔兒㆒、意謂㆓蹄皮亦不㆒㆑畱。今吾觀㆓其氣勢㆒、殆非㆓往時㆒矣」とあるは、親征錄の文に似ずして、却て祕史の文に似たり。蓋 元史のこの條は、親征錄に據らずして、大德 七年に成れる太祖︀ 實錄に據り、その實錄は、修正 祕史の文を辭通りに譯してありしなるべし。)この言コトバにつき、塔陽 罕タヤン カン 言イはく「但タヾ 畏オソロし。山ヤマに登ノボり立タたん」と云イひて、山ヤマに登ノボりて立タちけり。又マタ 塔陽 罕タヤン カンは、札木合ヂヤムカに問トふに、「又マタその後ウシロより厚アツく(大眾を率ゐて)來キぬるは、誰タレなる」と問トへり。
札木合ヂヤムカ 言イはく「訶額侖 額客ホエルン エケは、一人ヒトリの子コを人ヒトの肉ニクにて養ヤシナひてありき。三尋ミヒロの身ミあり、三歲サンサイの頭口トウコウを喫クラひ、三重ミヘの甲ヨロヒを被キて、三匹サンビキの强牛キヤウギウを拽ヒきて來クるぞ。箭筒ヤナグヒ豁兒ある人ヒトを都︀スベ豁脫剌てを嚥ノむとも、喉ノド豁斡來を碍サヽへられず。全マタ古卜臣き男ヲトコを呑ノむとも、心臓シンザウ斡咧に障サハらず。怒イカ阿兀兒剌れば、昂忽阿アンクア(箭の名)の箭ヤを拽ヒきて放ハナてば、山ヤマ阿兀剌を越コ阿魯思えてある十人トタリ哈兒班 廿人ハタタリの人ヒト哈闌を穿ウガつほどに射イる。鬭タヽカ客咧勒都︀ふ敵テキを曠野ヒロノ客額兒を隔ヘダ客禿思ててあるものを客亦不兒ケイブル(箭の名)の箭ヤを拽ヒきて放ハナてば、連ツラ客勒乞ぬるほどに穿ウガつほどに射イる(明譯將ヲ㆑人連穿透ヒトツラネウガチトホス)。大オホイ也客迭に拽ヒきて射イれば、九百尋クヒヤクヒロ也孫札兀惕の地トコロに射イる。減ヘラ塔壇し拽ヒきて射イれば、五百尋ゴヒヤクヒロ塔奔札兀惕の地トコロに射イる。人人ヒトビト古溫古溫より違タガひ、古咧勒古グレルグ(蟒の一種)なる蟒ウハヾミに生ウマれたる拙赤 合撒兒ヂユチ カツサルと