や。忙豁勒モンゴルの騸馬センバども瘦ヤせたりと云イはれたり。我等ワレラは、部眾ブシウに阿勒台 山アルタイ ザン(親征錄 案臺、元史 按臺)を越コえさせ退シリゾかせ動ウゴきて、軍イクサを整トヽノへて、彼等カレラを誘イザナひて行ユきて、阿勒台 山アルタイ ザンの下モトに到イタるまで
狗イヌの鬭タヽカひを鬭タヽカひて行ユきて、我等ワレラの騸馬センバどもは肥コえてあり、腹ハラを引起ヒキオコさせ、忙豁勒モンゴルの騸馬センバどもを疲ツカれさせ、彼等カレラの面ツラの上ウヘに水ミヅ 注カけん、我等ワレラ」と云イひて遣ヤりき。(阿勒台の東南幹山は、東に向ひて烏蘭郭馬 山となり、奇勒稽思 泊の北を繞り、又 東南に向ひ白勒克那克 科克依 山となり、又 東して杭愛 山の陽に接す。白勒克那克 科克依 山の南麓に今 烏里雅蘇台 城あり。塔陽 罕は、蓋その邊に駐牧せり。こゝに阿勒台 山と云へるは、その杭愛 山に接する邊を指せるなり。)
その言コトバにつき、古出魯克 罕グチユルク カン 言イはく「彼等カレラにかく婦人ヲミナ 塔陽タヤン 心コヽロ 怖オぢて、この言コトバを言イへり。忙豁勒モンゴルの多オホきは、いづこよりか來キけん。忙豁勒モンゴルの大半タイハンは、札木合ヂヤムカとこゝに我等ワレラの處トコロにあり。孕婦ハラミヲンナ坤都︀額篾の更衣ユマリの地トコロ合札兒に出イ合嚕でたること無ナき、車下クルマシタ古兒敦の犢コウシの草喫クサクふ處トコロに到イタ古嚕れること無ナき婦人ヲミナ 塔陽タヤンは、心コヽロ 怖オぢて、この言コトバを言イひておこせたるに非アラずや」とて、使ツカヒに依ヨり、父チヽを痛イタむるまで疚ヤマシむるまで、言イひて遣ヤりき。この言コトバにつき、塔陽 罕タヤン カンは、己オノレを婦人ヲミナとせらるべく言イはれて、塔陽 罕タヤン カン 言イはく「力チカラあり勇ユウある古出魯克グチユルク、到イタり合アひ殺︀コロし合アふ日ヒに必カナラずこの勇ユウを勿ナ 失ウシナひそ。到イタりあひ合アひ畢ヲへば、離ハナるゝこと必ビず難︀カタくあるぞ」と云イへり。
その言コトバにつき、塔陽 罕タヤン カンの下シタを管ツカサドれる大官人ダイクワンニン 豁哩 速別赤ゴリ スベチ(親征錄 元史 火力 速八赤)言イはく「亦難︀察 必勒格 罕イナンチヤ ビルゲ カンなるの父チヽ