Page:成吉思汗実録.pdf/196

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名を脫し、半の蒙語なる客勒帖該を山の名とせり。喇失惕も親征錄に同じ。この句に依りて考ふれば、成吉思 汗の圍獵したる帖篾延 客額兒も、冬籠したる阿卜只阿 闊迭格兒も、溯りて王罕の不意打を食ひし者︀者︀額兒 溫都︀兒も、みな今の車臣汗 部の東南境にありて、王罕は、合剌合勒只惕の戰の後に、未だ土兀剌の黑林の舊庭に還らざりしなり。洪鈞は「この哈勒合 河は、必ず東方の哈勒哈 河に非ず」と云へれども、祕史の下文に、客魯嗹 河に泝り撒阿哩 客額兒に到るとあれば、東方の地なること、何の疑ひ かあらん。)​數​​カズ​(人數)を​數​​カゾ​へ​合​​ア​ひて、​千​​セン​をそこに​千​​セン​とし(千人を以て千人組とし)て、

千戶 百戶 ​牌子頭​​ハイシトウ​ 六 ​扯兒賓︀​​チエルビン​の任命

​千戶​​センコ​の​官人​​クワンニン​、​百戶​​ヒヤクコ​の​官人​​クワンニン​、​十戶​​ジツコ​の​官人​​クワンニン​をそこに​任​​ヨサ​したり。(元史 兵志に「國初典兵之官、視︀兵數多寡、爲爵秩崇卑、長萬夫者︀爲萬戶、千夫者︀爲千戶、百夫者︀爲百戶、」又「十人爲一牌、設牌頭」とあり。この牌頭は、後文にはみな牌子頭と云へり。然れば千戶の官人は、漢︀語にては只 千戶と云ひ、百戶の官人は、百戶と云ひ、十戶の官人は、牌子頭と云へるなり。蒙韃 備錄にも「韃人生長鞍馬間、起兵數十萬、略無文書。自元帥千戶百戶牌子頭、傳令而行」とあり。)​扯兒賓︀​​チエルビン​(侍從の官)をもそこに​任​​ヨサ​したり。​朶歹 扯兒必​​ドダイ チエルビ​(卷三の多歹 扯兒必)、​朶豁勒忽 扯兒必​​ドゴルク チエルビ​〈[#ルビの「ドゴルク チエルビ」は底本では「ドコルク チエルビ」]〉卷三の多豁勒忽 徹兒必)、​斡格列 扯兒必​​オゲレ チエルビ​〈[#ルビの「オゲレ チエルビ」は底本では「オゲレイ チエルビ」]〉卷三の斡歌連 徹兒必、又 斡歌來 徹兒必)、​脫侖 扯兒必​​トルン チエルビ​、(親征錄 脫脫欒 闍兒必、脫の字一つ多し。元史 木華黎の傳 掇忽闌、哈八兒禿の傳 千戶 脫倫、石抹 也先の傳 脫忽闌 闍里必、石抹 孛迭兒の傳 奪忽闌 闍里必、忠義傳に伯八の父 脫倫 闍里必、晃合丹 氏、明里 也赤哥の子。別咧津は蒙格里克の子 脫命 扯兒必と云へり。明里も蒙格里克も、晃豁壇の蒙力克 額赤格なり。)​不察㘓 扯兒必​​ブチヤラン チエルビ​、(前には見えず。)​雪亦客禿 扯兒必​​シエイケト チエルビ​(卷三の雪亦客禿 徹兒必)、この​六人​​ムタリ​の​扯兒賓︀​​チエルビン​をそこに​任​​ヨサ​したり。​千​​セン​を​千​​セン​とし、​百​​ヒヤク​を​百​​ヒヤク​とし、​十​​ジフ​を​十​​ジフ​とし(千人百人十人の組合を作り)​畢​​ヲ​へて、​八十​​ハチジフ​の​宿衞​​シユクヱイ​(蒙語​客卜帖兀勒​​ケブデウル​)​七十​​シチジフ​の​侍衞​​ジヱイ​(蒙語​土兒合兀惕​​トルカウト​、明譯 散班)を

番士の新設

そこに​番士​​バンシ​(番直の士、蒙語​客失克田​​ケシクテン​、明譯 護衞、元史 兵志​怯薛歹​​ケセテイ​)に​選​​エラ​びて​入​​イ​らしむるに、​千戶​​センコ​ ​百戶​​ヒヤクコ​の​官人​​クワンニン​どもの​子​​コ​ども​弟​​オトヽ​どもを​次​​ツギ​に​白身​​ハクシン​の​人​​ヒト​の​子​​コ​ども​弟​​オトヽ​どもを​入​​イ​らしむるに、​技能​​ギノウ​あり​身材​​シンサイ​ ​好​​ヨ​き​者︀​​モノ​どもを​選​​エラ​びて​入​​イ​らしめたり。

親軍 ​千夫​​センプ​の​長​​ヲサ​なる​阿兒孩 合撒兒​​アルカイ カツサル​

そこに​阿兒孩 合撒兒​​アルカイ カツサル​に​恩賜​​オンシ​して、「​勇士​​イウシ​どもを​選​​エラ​びて​千夫​​センプ​とせよ。​戰​​タヽカ​ふ