Page:成吉思汗実録.pdf/194

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を​汪古惕​​オングト​の​阿剌忽石 的吉惕忽哩​​アラクシ チギトクリ​に​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​るには「この​東​​ヒガシ​に​些​​スコシ​の​忙豁勒​​モンゴル​ありと​云​​イ​はれたり。​汝​​ナンヂ​は​右​​ミギ​の​手​​テ​となれ。​我​​ワレ​はこゝより​力​​チカラ​を​幷​​アハ​せて​彼​​カ​の​少​​スコ​しの​忙豁勒​​モンゴル​の​箭筒​​ヤナグヒ​を​取​​ト​らん」と​云​​イ​ひて​遣​​ヤ​りき。

嚮背を誤らざる​汪古惕​​オングト​

その​言​​コトバ​に、​阿剌忽石 的吉惕忽哩​​アラクシ チギトクリ​ ​答​​コタ​へて​言​​イ​はく「​右​​ミギ​の​手​​テ​となること​能​​アタ​はず、​我​​ワレ​」と​云​​イ​ひて​遣​​ヤ​りて、​阿剌忽石 的吉惕忽哩​​アラクシ チギトクリ​は、​月忽難︀​​ユクナン​と​云​​イ​ふ​使​​ツカヒ​もて​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​るには「​乃蠻​​ナイマン​の​塔陽 罕​​タヤン カン​は、​爾​​ナムチ​の​箭筒​​ヤナグヒ​を​取​​ト​りに​來​​コ​ん。​我​​ワレ​に​右​​ミギ​の​手​​テ​となれと​云​​イ​ひて​來​​キ​ぬ。​我​​ワレ​は​爲​​ナ​らず。​今​​イマ​ ​我​​ワレ​ ​爾​​ナムチ​に​警吿​​ケイコク​して​遣​​ヤ​りぬ。(明譯補足​若​​モシ​ ​不​​ズバ​隄防、)​來​​キ​て​箭筒​​ヤナグヒ​を​取​​ト​られん、​爾​​ナムチ​」と​云​​イ​ひて​遣​​ヤ​りき。(汪古惕の阿剌忽石 的吉惕忽哩は、親征錄に王孤 部 主 阿剌忽思 的乞火力、元史 本紀に白 達達 部 主 阿剌忽思、本傳に阿剌兀思 剔吉忽里 汪古 部 人とあり。白 達達は、汪古惕の漢︀名にして、卽ち古今 紀要、蒙韃 備錄の白 韃靼なり。親征錄に曰く「乃蠻 太陽 可汗、遣使 月忽難︀、謀於 王孤 部 主 阿剌忽思 的乞火里曰「近聞東方有王者︀。日月在天、了然見之。世豈有二王哉。君能益吾右翼、奪其弧矢。」阿剌忽思、卽遣使 朶兒必塔失、以是謀先吿於上、後擧族來歸。我之與王孤 部親好者︀、由此也。」乃蠻の使 脫必塔失 を汪古惕の使と誤り、汪古惕の使 月忽難︀を乃蠻の使と誤れり。又 元文類︀に、閻復の駙馬 高唐王 闊里吉思の碑あり。闊里吉思は、阿剌忽石の曾孫なり。その碑に曰く「亡金塹山爲界、以限南北。阿剌兀思 惕吉忽里 一軍扼其衝。太祖︀聖武皇帝起朔方、併吞諸︀部。有西北、曰帶陽 罕者︀、遣使 卓忽難︀來謂曰「天無二日、民無二王。汝能為吾右臂朔方不難︀定也。」阿剌兀思 料〈[#返点の「三」は底本では「二」にも「三」にも見える。昭和18年復刻版では「二」となっているが、おそらく間違い]〉太祖︀終成大事、決意歸之。卽遺麾下將 禿里必荅思、齎酒六榼、送卓忽難︀ 於太祖︀、吿以帶陽 之謀。時朔方未酒醴。太祖︀祭而後飮、擧爵者︀三。使還、酬以馬二千蹄、羊二千角。」この碑文も、使の名を誤れること、親征錄に同じ。元史 阿剌兀思の傳は、この碑文に本づきて、使の名をば略けり。)​正​​マサ​にその​時​​トキ​ ​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、

​駱駝が原​​ラクダガハラ​の​圍獵​​マキガリ​

​帖篾延 客額兒​​テメエン ケエル​(駱駝が原。親征錄 元史​帖麥該 川​​テメゲイ セン​、親征錄 また 帖木垓 川)に​圍獵​​マキガリ​して、​禿勒勤扯兀惕​​トルキンチエウト​を​圍​​カコ​みて​居​​ヲ​る時、​阿剌忽石 的吉惕忽哩​​アラクシ チギトクリ​の​遣​​ヤ​りたる​月忽難︀​​ユクナン​なる​使​​ツカヒ​ この​報​​シラセ​を​致​​イタ​し​來​​キ​ぬ。こ