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集錄と云ふ​義​​ギ​なり。下文には集史 又は蒙古 集史など書けり。その書は、亞細亞の​諸︀種族​​シヨシユゾク​の​狀態​​ジヤウタイ​、その​地方​​チハウ​の​形勢​​ケイセイ​、元帝の祖︀先の事より始めて、太祖︀の​功業​​コウゲフ​を​詳敍​​シヤウジヨ​し、太宗 ​定宗​​テイソウ​ ​憲宗​​ケンソウ​ 三朝の事を​略敍​​リヤクジヨ​し、​世祖︀​​セイソ​ ​成宗​​セイソウ​ 二朝は最も略し、​珀兒昔阿​​ペルシア​の​列王​​レツワウ​、​旭烈兀​​フラグ​​Hulagu​より​合贊​​ガザン​までの事蹟は頗る​委​​クハ​し。その​自序​​ジジヨ​に據れば、​當時​​タウジ​ ​亦勒罕​​イルカン​​Ilkhan​の祕府に、蒙古の​文書​​ブンシヨ​あまた​保存​​ホゾン​せられて、​斡勒齋禿 汗​​オルヂヤイト カン​より修史の參考に用ふることを​許​​ユル​され、​殊​​コト​に​阿勒壇 迭卜帖兒​​アルタン デプテル​​Altan depter​黃金の書册、貴き書册卽ち​金册​​キンサク​と云へる蒙古の歷史、​汗​​カン​の​寶庫​​ハウコ​に藏して、​別克​​ベグ​​Beg​都︀邑の宰の​長老​​チヤウラウ​の​保管​​ホクワン​し居る者︀をも參考に用ひ、又 ​支那​​シナ​、​印度​​インド​、​畏兀兒​​ウイグル​​Uigur​、​乞卜察克​​キプチヤク​​Kipchak​の學者︀だち、殊に​大官人​​タイクワンジン​ ​普剌惕 丞相​​プラツド シヨウジヤウ​​Pluad chinksank​に命じて​助​​タス​けを​與​​アタ​へさせられたり。この​普剌惕 丞相​​プラツド シヨウジヤウ​は、​王國​​ワウコク​の​元帥​​ゲンスヰ​ ​宰相​​サイシヤウ​にして、​東方​​トウバウ​の種族の古傳 歷史、殊に蒙古の​其​​ソレ​を​誰​​タレ​よりも善く知れりと云へり。その書は、又 ​阿來額丁 壓塔 木勒克 主費尼​​アライエツヂン アツタ ムルク ヂユヹニ​​Alai eddin Atta mulk Juveni​の蒙古史にも多く據れり。

 ​主費尼​​ヂユヹニ​​Juveni​は、​主費因​​ヂユヹイン​​Juvein​の人にて、​地​​トコロ​の名を以て​姓​​ウヂ​とせり。その​父​​チヽ​ ​巴海︀列丁 謨罕默德 主費尼​​バハイレツヂン モハンメツド ヂユヹニ​​Bahail eddin Mohammed Juveni​は、蒙古に仕へたる故に、憲宗 元年、後深草 天皇 建長 三年、西紀 一二五一年、​阿來 額丁​​アライ エツヂン​は、​父​​チヽ​に​從​​シタガ​ひ蒙古に​到​​イタ​り、​憲宗 登極​​ケンソウ トウキヨク​の​大聚會​​タイシウクワイ​に​會​​クワイ​せり。西書には一二五二年とあれども、この大聚會は、その前年の六月なれば、紀年に誤りあらん。元史 憲宗紀、この大聚會の續きに「以​阿兒渾​​アルフン​​Arhun​​充​​アテ​​阿母​​アム​​Amu​​河​​ガハ​​等處​​トウシヨノ​​行尙書省事​​カウシヤウシヨセイジニ​、​法合魯丁​​フアカルツヂン​​Fakhal uddin​​佐​​タスク​」とある​法合魯丁​​フアカルツヂン​​Fakhal uddin​は、卽ち​巴海︀勒丁​​バハイレツヂン​​Bahail eddin​なり。その後 ​阿來 額丁​​アライ エツヂン​は、​旭烈兀​​フラグ​の​西征​​セイセイ​に​從​​シタガ​ひ、​文牘​​ブントク​を​掌​​ツカサド​り、​西域​​サイイキ​ ​卽​​スデ​に​平​​タヒラ​ぎて、​地方​​チハウ​の​大吏​​タイリ​