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 親征錄は、​乾隆︀中​​ケンリウチウ​、​兩淮 鹽運使司​​リヤウワイ エンウンシシ​にて得て內府に上り、​錢大昕​​センタイキン​これを寫し取り、それより​輾轉 鈔寫​​テンテン セウシヤ​して、​大興​​タイキヨウ​の​徐松​​ジヨシヨウ​に​歸​​キ​したり。​道光中​​ダウクワウチウ​、​平定​​ヘイテイ​の​張穆​​チヤウボク​は、​徐本​​ジヨホン​を寫し取り、​大興​​タイキヨウ​の​翁方綱​​オウハウカウ​の​家​​イヘ​の藏本を借りて​對校​​タイカウ​し、​更​​サラ​に​光澤​​クワウタク​の​何秋濤​​カシウタウ​に​授​​サヅ​けて校正せしめたり。​光緖​​クワウチヨ​ 二十年、​彰南​​シヤウナン​の​分巡道​​ブンジユンダウ​ ​芳郭​​ハウクワク​は、​何氏​​カシ​の校本を​瓦羨​​グワセン​の​姚士達​​エウシタツ​に​授​​サヅ​け、​校正 元 親征錄​​カウセイ ゲン シンセイロク​と題して出版せしめたり。又 ​順德​​ジユントク​の​李文田​​リブンデン​、​嘉興​​カキヨウ​の​沈曾植​​チンソウシヨク​、​各​​オノ 何氏の校本を寫し取りて​校注​​カウチウ​し、​順德​​ジユントク​の​龍鳳鑣​​リヨウホウヘウ​は、​李沈​​リチン​の​二注​​ニチウ​を​合​​アハ​せて、​何氏 校本​​カシ カウホン​の出版に續きて出版し、​知服齋 叢書​​チフクサイ ソウシヨ​に​收​​オサ​めたり。この錄につきても、露西亞は支那よりも早く、​僧︀正​​ソウジヤウ​ ​帕剌的兀思​​パラヂウス​は何校 親征錄の鈔本を得て、露西亞文に譯し、西紀 一八七二年、明治 五年、同治 十一年、何氏 校本 李沈 校本の出版より二十餘年 ​前​​マヘ​に「​東方​​トウバウ​の​記錄​​キロク​」に入れて出版せり。

 ​喇失惕 額丁​​ラシツド エツヂン​​Rashid eddin​は、元の​定宗​​テイソウ​ 二年、後深草 天皇 寶治 元年、西紀 一二四七年、​哈馬丹​​ハマダン​​Hamadan​に生れ、​醫術​​イジユツ​を以て​合贊汗​​ガザン カン​​Ghazan Khan​に​仕​​ツカ​へ、​成宗​​セイソウ​の​大德​​タイトク​ 二年、伏見 天皇 永仁 六年、西紀 一二九八年、​王國​​ワウコク​の​尙書​​シヤウシヨ​となり、​斡勒齋禿 汗​​オルヂヤイト カン​​Oljaitu Khan​の時もその​職​​シヨク​に續き居りき。蒙古の史を​集錄​​シフロク​する事を​合贊​​ガザン​より命ぜられたりしが、大德十一年後二條 天皇 德治 二年、西紀 一三〇七年に、その書 成りて、​斡勒齋禿​​オルヂヤイト​に上り、​仁宗​​ジンソウ​の​延祐︀​​エンイウ​ 五年、花園 天皇 文保 二年、西紀 一三一八年​讒​​ザン​に​遭​​ア​ひ、​阿不 賽德 汗​​アブ サイド カン​​Abu Said Khan​斡勒齋禿 汗の子に​殺︀​​コロ​されたり。その書は、​珀兒昔阿​​ペルシア​​Persia​​文​​ブン​にて、書の名は​札米 兀惕 帖伐哩黑​​ヂヤミウト テヷリク​​Jami ut Tevarikh​と云ふ。​札米​​ヂヤミ​​Jami​は集錄、​兀惕​​ウト​​ut​は「​屬​​ツ​く」と云ふ​前置詞​​ゼンチシ​、​帖伐哩黑​​テヷリク​​tevarikh​は歷史にて、歷史の