るを母ハヽごめに又マタ 虜︀トラへて去サりて、駝駱ラクダを牧カはしめ行ユく時トキ、阿澤 罕アヂエイ カンの羊飼︀ヒツジカヒを率ヒキゐて逃ノガれて來キたるぞ。又マタその後ノチ 乃蠻ナイマンより怕オソれて躱カクれて、撒兒塔兀兒サルタウル(中亞細亞の抹哈篾惕 敎徒なる撒兒惕人)の地チなる垂 木嗹チユイ ムレン(垂河、唐書の碎葉 河、西遊記の吹 沒輦。西域 水道記の吹河、今の珠河)に合喇 乞荅惕カラ キダトの古兒 罕グル カンの處トコロに往ユきたるぞ。そこに一年ヒトトセを盡ツクさず、却カヘツて背ソムき動ウゴきて、委兀惕ウイウト(前の長忽惕)唐兀惕タングト(前の唐忽惕)の地チに沿ソひて行ユくに、困窮コンキウして、五匹ゴヒキの𦍩䍽クロヒツジを拘トラへて乳チを擠シボりて、駱駝ラクダの血チを刺サして飮ノみて、一ヒトつ盲メシヒ(片目)の黑鬛クロガミの黃馬キイロマ(蒙語合哩溫 抹𡂰カリウン モリン、明 旁譯 黑鬃尾黃馬)にて、困窮コンキウして帖木眞テムヂンなる子コの處トコロに來キつれば、科斂クワレンを斂ヲサめて養ヤシナへるぞ。今イマ 帖木眞テムヂンなる子コの處トコロにかく行ユきたるを忘ワスれて、臭クサき肝カンを懷イダきて行ユくなり。いかにか爲セん、我等ワレラ」と云イひ合アへり。かく言イひ合アへる言コトバを、阿勒屯 阿倏黑アルトン アシユク(親征錄 元史案敦 阿述アントン アシユ)は、王罕ワンカンに訐アバきけり。
王罕ワンカンを譏ソシれる人人の縛られ
阿勒屯 阿倏黑アルトン アシユク 言イはく「我ワレもこの相談サウダンに入イり合アひたりき。却カヘツて己オノが君キミを爾ナムチを捨スてかねたり」と云イひて、そこに王罕ワンカンは、かく言イひ合アひたる額勒 忽禿兒エル クトル〈[#「額勒 忽禿兒」は底本では「額勒忽禿兒」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§152(05:15:06)の漢︀字音訳「額勒-忽禿兒」に倣い二語に分割]〉(親征錄 元史燕火脫兒エンコルト)、忽勒巴哩クルバリ(親征錄渾八力クンバリ)、阿𡂰 大石アリン タイシ(親征錄納憐 太石ナリン タイシ、後に阿隣 太石)など、弟オトヽども官人クワンニンどもを拏トラへさせけり。弟オトヽどもより札合敢不ヂヤカガンブは躱ノガれて、乃蠻ナイマンに入イりけり。(札合敢不は、王罕の西遼に走れる時、成吉思汗に降りしが、王罕 歸りて後、復 王罕の處に返り、こゝに至り又 逃げたるなり。)彼等カレラを繩繫ナハカけ房ヘヤに入イらしめて、王罕ワンカン 言イはく「我等ワレラ、委兀惕ウイウト、唐兀惕タングトの地チ