Page:成吉思汗実録.pdf/104

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​札木合 安荅​​ヂヤムカ アンダ​に​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​りたる​言​​コトバ​、かくの​如​​ゴト​し。​又​​マタ​ ​客咧亦惕​​ケレイト​の​脫斡哩勒 罕​​トオリル カン​の​言​​イ​へる​言​​コトバ​を​札木合​​ヂヤムカ​に​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​るには、「​前​​サキ​の​日​​ヒ​、​我​​ワ​が​也速該 罕 額赤格​​エスガイ カン エチゲ​(也速該 罕なる父)に​助​​タスケ​を​好​​ヨ​く​爲​​ナ​されたるを​想​​オモ​ひて、​伴​​トモ​とならん、​我​​ワレ​。​二萬人​​ニマンニン​となりて​右​​ミギ​の​手​​テ​となり​出馬​​シユツバ​せん。​札木合 弟​​ヂヤムカ オトヽ​に​傳言​​デンゴン​して​遣​​ヤ​れ。​札木合 弟​​ヂヤムカ オトヽ​は、​二萬人​​ニマンニン​にて​出馬​​シユツバ​せよ。​相 合​​アヒ ア​ふ​約會​​ヤククワイ​は​札木合 弟​​ヂヤムカ オトヽ​より​爲​​セ​よ」と​云​​イ​へり。この​言​​コトバ​どもを​盡​​ツク​させ​畢​​ヲ​へて、

​札木合​​ヂヤムカ​の​返辭​​カヘリゴト​

​札木合​​ヂヤムカ​ ​言​​イ​はく「​帖木眞 安荅​​テムヂン アンダ​を、​座​​クラヰ​​斡囉​ ​空​​カラ​​豁黑脫兒忽​になれりと​知​​シ​りて、​我​​ワ​が​心​​コヽロ​​斡咧​ ​痛​​イタ​​額別惕​めり。​懷​​フトコロ​​額不兒​ ​半​​ナカバ​になれりと​知​​シ​りて、​我​​ワ​が​肝​​カン​​赫里格​ ​痛​​イタ​​額別惕​めり。​讎​​アタ​​斡雪勒​を​復​​カヘ​​斡旋​しに、​兀都︀亦惕​​ウドイト​〈[#ルビ「ウドイト」は底本では「ウトイト」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉、​兀洼思 篾兒乞惕​​ウワス メルキト​を​滅​​ホロボ​​兀魯惕客​して、​夫人​​フジン​​兀眞​ ​孛兒帖​​ボルテ​を​救​​スク​はん。​怨​​ウラミ​​哈赤​を​報​​ムク​いに、​普​​アマネ​​合木黑​き​合阿惕 篾兒乞惕​​カアト メルキト​を​打破​​ウチヤブ​​合勒塔赤​りて、​妃​​キサキ​​合屯​ ​孛兒帖​​ボルテ​を​回​​カヘ​​合哩兀侖​らせ​救​​スク​はん。​今​​イマ​ ​彼​​カ​の​鞍韂​​クラノアフリ​​戈勒篾​を​拍​​ウ​つ​時​​トキ​ ​鼓​​ツヾミ​​可兀兒格​の​音​​オト​となして​遽​​アワ​​可乞迭克​て​驚​​オドロ​く​脫黑脫阿​​トクトア​は、​不兀喇 客額兒​​ブウラ ケエル​に​居​​ヲ​るぞ。(不兀喇 原、駱駝 原。親征錄​不剌川​​ブラセン​。內府 與圖に、恰克圖の東に布拉 喀倫あり。喀倫の南に布拉 河あり、西に流れて色楞格 河に入る。露西亞の地圖には、ブレン河とあり。不兀喇 原は、この布拉 河の邊の原野なるべし)​蓋​​フタ​​荅卜赤​ある​箭筒​​ヤナグヒ​を​搖閃​​ユラメカ​​荅兒巴勒札​す​時​​トキ​ ​反​​カヘ​​歹只赤​り​走​​ハシ​る​歹兒 兀孫​​ダイル ウスン​は、​今​​イマ​ ​斡兒桓​​オルコン​ ​薛涼格​​セレンゲ​ ​二河​​ニカ​の[​閒​​アヒダ​なる]​塔勒渾 阿喇勒​​タルクン アラル​に​居​​ヲ​るぞ。(斡兒桓 河は、今の鄂爾坤 河にして、唐書 回鶻の傳に昆河また嗢昆 水、元史 太宗紀に斡兒寒 河、明宗紀に斡耳罕 水、虞集の句容郡王 世績の碑に斡歡 河、歐陽玄の偰氏 家傳に斡爾汗 河などあり。薛涼格 河は、今の色楞格 河にして、唐書 回鶻の傳に仙娥 河、元史 巴而朮 阿而忒 的斤の傳に薛靈哥 水、耶律鑄の雙溪 醉隱集に錫蘭 河、偰氏 家傳に偰輦傑 河、瀚海︀集に習靈靄 河などあり。塔勒渾 阿喇勒 卽ち勇婦の島は、兩河 合流の處にある出島なるべし。)​蓬​​ヨモギ​​含合兀勒孫​に​風​​カゼ​​克​ ​戰​​ソヨ​ぐ​時​​トキ​ ​黑​​クロ​​合喇​き​林​​ハヤシ​​槐​を​爭​​アラソ​ふ​合阿台 荅兒馬剌​​カアタイ ダルマラ​は、​今​​イマ​、​合剌只 客額兒​​カラヂ ケエル​に​居​​ヲ​る