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日本者少。云々」

といひ、金指南の「東槎日錄」(康熙二一年西紀一六八二)には

貴國品川誓泰寺の僧の言にして朝鮮を指す則馬島之人多能通曉用是國無置員講習之規矣」。

とあり、金指南同行の洪禹載の記した「東槎錄」中には對馬に於ける日本通事の姓名 を十七八名も擧げて居る。以て對馬に於ける朝鮮語學が如何に旺盛を極めたかの一 班を知ることが出來よう。同島古老の談によれば壬辰の役には嚴原町からばかりで も、六十餘人の通譯を出したといふ事である。

其の後享保年間に至り、對馬では始めて大通詞なる職を設け、江口金七・加瀨傳五 郞を以て之に任じ(
)、朝鮮語通譯の任に當らしめた。爾後德川の末期まで著しい變 遷が無かつたやうであるが、最後に明治初年の頃に於ける對馬の朝鮮語研究の有樣 を述べ本篇を結ばうと思ふ。

明治維新に際し、宗重政外務大丞に任ぜられたが、明治三年に至り朝鮮との外交は 宗氏の手を離れ、外務省が直接交渉をする事になつた。明治五年森山茂・廣津弘信