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んで新羅語を學習せしめ新羅を征するの準備をさせた事(續日
本紀)があるから、當時新羅
語に通じた人が相當多數に達したことを知るべきである。而して對馬に新羅譯語を
置くに至つたのは嵯峨天皇弘仁五年一月の事である(日本後紀。此より先弘仁四年に太政官符にして其の設置を請うて居る)。
其の後「延喜式」主稅の條に「新羅譯語傔伏一分」なる語なども見えで居るから、新羅
語硏究熱が漸次盛んになつて來たことを想像するに足る。
其の後對馬に於ける朝鮮語學は如何なる狀態にあつたか消息を絕つて居るが、李朝 時代に至りては姜睡隱の「看羊錄」(萬曆二十七年西紀千五百九十九)に
「對馬之倭銳毒不足、而巧詐百出、於我國之事又無不周知。自平時擇島中童子之伶俐者、以敎我國言語、又敎我國書啓簡牘之低昻曲折。雖明眼者倉卒則不能辨爲倭 書。」
といひ、「亂中雜錄」庚子五月の條には
「對馬鳥對州管二郡。(中略)其女子多着我國衣裳、而其男子幾解我國言語。稱倭國必曰日本、稱我國必曰朝鮮。未嘗專以日本自處、在平時蒙利於我國者多、蒙利於