Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/222

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野市郞左衞門が郡奉行たりし時相議し、正德四年の冬種子を長崎に求め、留守居平 田三左衛門が種藷三百を送り越したによつて始めて之を二郡に分與したが、終に失 敗に終つた。然るに久原村に老農三郞右衞門なるものあり、甘藷栽培に關しては相 當の經驗を有して居るので、彼をして栽培法を各村に傳習せしめた。爾後本島には 甘藷の栽培が盛んになつたといふのである。

甘藷傳來の經路に就いては以上の如く異說はあるが、其の傳來の年代及び原田三郞 右衛門の功勞を認むる點に於ては諸說悉く一致して居る。三郞右衞門は元々農民で 姓が無かつたが、甘藷傳播の功によつて原田を名乘ることを許され、且つ士分に引 立てられて、子々孫々嚴原城下に住家をさへ與へられて居た。今より十四五年以前 までは島民各戶に若干づつの金錢を醵出し、「かういもせん」と稱して三郞右衛門の子孫 を扶助して居た。朝鮮の書「山林經濟」(卷一)に

「今信使之經對馬島佐須舗也、見靑田彌望無際、乃藷田也。倭之艫軍啖藷根以當朝タ。倭亦新得此種、猶未遍一國。其最初得之人自島中每戶聚五文錢、歲給此人報 其功云