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つたしま 傳説の最も古きものにして、當地には此に固する種々の地名傳説あり。明治六年五月第十五大長 の上申せる走水神社由緒書上に「日本武尊東御征伐の、嘗園阿分利山より線の國御の悪口御 逸見の上郡水村へ入御 日數十日程御止沓井より上総岡木更津村へ渡御、洋中の御危難 橘 御入の古く知る、古事記に地名走水、日本書紀に走井と相見へ候由、口碑に御座船(走 ること)なるを以て、水走る御意あり、故に走水名く云云御滞在中、御旗の御居場を今に山 唱へ、同絶頂に立松の數代の今に至り積藏有之候。 土人渡御の御名残惜幕により、御冠を下 右御資を御座所に埋め、 走水 語し奉り、古より之を拝せし者さては無之との事に候 へども、今に神殿下に石櫃蓋とし、現に有之候。又橘媛命御入水の後、御衣諸浦に漂着 更津浦へ流着き講の国で御二神を御夫婦と唱へ、起元何の謂なるは不知、常方出火すれば、 彼方に火災あり、彼方出火の時は此方火災あり、因て一方出火之節は相互にを焚くの古習今に存 在す。 走水、木更津の村を夫婦村里俗申傅の日碑に御座候」とあり。旗山は北方に在り。海岸に 出せる小山にて、其の岬を御所さいふ。旗山はの樹てられし所、御所ヶ崎は御座所を設けら 所さ傅ふ山には旗立松籍する老松ありしが、砲造の時伐採せられ、其の一片は故海軍 上村之氏によりて鎌倉田澄の日蓮堂の扁額に用るられたり。御所より海中に敷あり と云ふ。傅嶋の最端をむぐりの鼻と云ふ。命の侍女を傳は、むぐりの鼻より海中に入りて 命に殉じたり傳ぶ。御所の北に皇編あり。尊の乗船せられし所さ傅へ 走水神社正面の海中に御 座嶋あり、此れ尊と命に御決別し所ふ。 弟橘媛命紀念碑 走水神社の後背丘上に在り。 地高燥にして、近く走水の漁港を俯瞰し、 諸のたちを望む。波かにして白帆祓~眺望だ適たり。碑は伊豆石にて作り、 高さ一四尺、正面に「さねさし」の歌をる。歌の文字は竹田宮昌子内親王殿下の御染筆 碑は明治四十三年六月五日に春を除かれたり。其の建設せられし動機には一場の話あり。ちご 走水神社は日本武尊のみを祀り、弟橘媛命は橘興さて旗山に祀りたり。其の祭祀も維新後の事に し、以前には弟橘媛命を祀れるは、郡内に於ては、田浦町の吾妻神社ありしのみ、明治十八年山が 陸軍用地とありたれば、橘神をして走水神社に置き、四十三年同社を走水神社に合併するに及び 殿をせり。時に小池道子刀自煙霞療養のため葉山村に在り。一夕男高崎正風氏に 談嶋の史蹟に及び、懐古の情頻りに起り、他共に携えて走水神社に詣で、橘紳の倭隔見るに忍 ひざるを焼き、横須賀鎮守府官舎に時の司令長官海軍中上村蒼之氏を訪ひ、其の 彰の こを譲りしが、恰も神社合併の行はるに際したれば、記念碑建設に決し、海軍大將東郷平八郎氏 委員長となり、海軍大將伊東祐亭、陸軍大骼乃木希典の將軍起の下に建設せらるゝに至り。碑 の裏面に共の由来を記す。「鳴呼、此は弟橘比賣命、いまはの御歌なり。命夫君日本武尊の東征し給 ふにはれ、駿河にては危き野火のを免れ、走水の海を渡り給ふさき、端なく暴風に進む、身を 犠牲としての御命をからしめし、このいまはの歌なり。御歌に塗る♪真情は、すべて夫