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三浦半󠄁嶋の名は、湘南の一勝󠄁區として、夙に江湖に著はれ、觀光の客絡繹して、遊󠄁屐四時に絕えず。寔に、地は遠󠄁海︀南に延󠄁びて、山海︀相倚り、岬灣開合して、明暗の布置旣に妙趣を成せり。

 歩して淺汀に立てば、遠󠄁く大嶋の靑螺を望み、近󠄁く江嶋の翠󠄁微を眺む。登りて高山に到れば豆山相峰の峨々たるに謁︀し、總巒房󠄁嶺の蜿々たるに接す。放望すれば碧波浩︀洋として限りなく、雲鳥飛んで綠波に潜み、風帆駛せて碧空󠄁隠󠄂る。而して富嶽の麗容は凛乎として雲表に屹立し、以て此の外觀の肝要を成す。內には則ち神︀武寺の幽邃、滿󠄃昌寺の淸雅、衣笠山の秋色、田越川の夕照、御幸濱の淸風浦賀水道󠄁の歸帆、荒󠄁崎の怪嚴、城嶋の狂瀾、劍崎の望洋、本浦の靜趣、逗子、葉山、三崎、下浦の風光は夙に人口に膾炙する所󠄁、見來れば半󠄁嶋は實に渾然として一大公󠄁園たるの觀あり。

 加之に、此地又󠄂頗る史󠄁蹟に富み、屬目の風物悉く懐古の情󠄁伴󠄁はざるはなし。上古蒙昧の世旣に民族の棲息せるあり、其の遺󠄁跡は沿︀岸の小丘に歷然として殘り、半󠄁嶋風氣の開發の悠久なるを思はしむるものあり。景行天皇の御宇、皇子日本武尊󠄂󠄁の御東征に當りては、途󠄁半󠄁嶋を過󠄁ぎらせ玉ひ、走水の海︀上に於て御遭󠄁の際、弟橘媛命が忠貞の御行事は儼として千古に敎訓を垂れ、後世澆季の人心をして尙且つ感孚せしむるものあり。降りて鎌󠄁倉時代に入れば、豪族三浦氏累世割據し、其の城墟空󠄁しく殘り、老樹天颷に吼ゆる衣笠城、亂波岸に狂ふ小網代城、何れも靑年の感興を動かさゞれば措かず。