鼠 (梶井基次郎)
本文
編集俺 が戯 れに遁 してやった鼠よ。可愛 い鼠よ。貴様はほんとうに可愛らしかった。若い肥えた身体 、それから茶色の毛。溝 の鼠なら靴 ふきの毛のようにきたないのにお前の毛は一本一本磨 いたようだった。清潔だった。そして貴様は十七の娘のような身体をしていたのだった。お前の鼻の先と趾 の赤いのはほんとうに見事だった。お前の鼻の先は冷 いやりとしていい気持だろうな。お前の趾で俺の顔をめちゃめちゃに踏 んづけたらさぞ気持のいいことだろう。- 俺がほんの気まぐれに遁してやった小鼠よ。俺の
猫 はあれ切りでまだ新らしい鼠をとらないよ。それにあの時は彼女の生れてはじめての獲物 だったのだ。 - しかし猫の快楽や猫の
餌食 にお前が犠牲 にならねばならないということはない。お前のように可愛い奴 が。猫には毎日飯をやってあるのだし。 - 俺がほんの気まぐれで遁してやった小鼠よ。あの時お前は
怖 ろしかったかい。怖ろしいにはちがいないと俺は思ったが、見たところお前はちっとも怖ろしがっているようには見えなかったよ。 - それどころかお前はあの小猫とふざけているように見えたのだ。しかしお前はあの時おれの所から二尺も離れていない所にいたのだ。それを思ってみれば俺にはまるで気がつかないほど怖ろしがっていたのだったろうが、しかし俺にはそうは思えないのだ。お前はほんとうに可愛げにあの小猫の奴と
戯 れているようだったのだ。 - お前は
壁 の裾 で猫が前足でお前を叩 くとお前は前足を二つ上げてそれをつきかえしていた。幼稚園 の生徒の兎 ごっこのような恰好 で。 - お前の眼は可愛かったしお前の足の裏は赤かった。
- 小猫の奴はやはり戯れていた。
- しかし
傍見 をしたりしたことがあるよ。どこかでごとりと音がした時あいつはきっとその方へきき耳をたてた。まるでお前が彼女の中止の間、やはり待っていてくれるだろうというような態度で。 - それからまた彼女はお前を叩きはじめた。
- お前が兔の前足のような恰好でそれをつきかえしていた。
- それからどうしたのかお前がのこのこ歩き出したのだったね。そしたら小猫の奴がまたのこのこ追っていった。それからまた足ではねとばしてお前に
嚙 みついたりしていた。 - それからまた叩きはじめたのだ。
- あいつがお前を嚙んだと
云 っても痛くはなかったろう。――いや俺はあまりふざけ過ぎているかも知れない。 - 俺が遁してやった小鼠よ。あんなに見えていてもお前は本当は怖ろしかったんだろうね。そしてあいつの
牙 は鋭 く、爪 は趾爪のように曲ってお前の身体をひかけたんだろう。
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