黒髪

• 底本：1971（昭和46）年7月20日新潮社発行『日本文学全集2 国木田独歩・岩野泡鳴・伊藤佐千夫・田山花袋・近松秋江・正宗白鳥』

本文

一

……その女は、私の、これまでに数知れぬほど見た女の中で一番気に入った女であった。どういう所が、そんなら、気に入ったかと訊（たず）ねられても一々口に出して説明することは、むずかしい。が、何よりも私の気に入ったのは、口のききよう、起居振舞（たちいふるまい）などの、わざとらしくなく物静かなことであった。そして、生まれながら、何処（どこ）から見ても京の女であった。尤（もっと）も京の女と云えば、どこか顔に締りのない感じのするのが多いものだが、その女は眉目（びもく）の辺が引締っていて、口元なども屢々（しばしば）彼地の女にあるように弛（ゆる）んだ形をしておらず、色の白い、夏になると、それが一層白くなって、じっとり汗ばんだ皮膚の色が、ひとりでに淡紅色を呈して、いやに厚化粧を売り物にしているあちらの女に似ず、常に白粉などを用いぬのが自慢というほどでもなかったけれど……彼女は、そんな気どりなどは少しもなかったから……多くの女のする、手に暇あれば懐中から鏡を出して覗（のぞ）いたり、鬢（びん）をなおしたり、又は紙白粉で顔を拭くとかいったようなことは、ついぞなく、気持ちのさっぱりした、何事にでも内輪な、どちらかというと色気の乏しいと云ってもいいくらいの女であった。

そして何よりもその女の優（すぐ）れたところは、姿の好いことであった。本当の脊は高くないのに、ちょっと見て高く思われるのは身体の形がいかにもすらりとして意気に出来ているからであった。手足の指の形まで、すんなりと伸びて、白いところにうす蒼（あお）い静脈の浮いているのまで、一入（ひとしお）女を優しいものにしてみせた。冬など蒼白いほど白い顔の色が一層さびしく沈んで、いつも銀杏（いちょう）がえしに結（ゆ）った房々とした鬢の毛が細おもての両頰をおおうて、長く取った髱（たぼ）か鶴のような頸筋（くびすじ）から半襟に被（おお）いかぶさっていた。

それは物のいい振りや起居と同じように柔和な表情の顔であったが、白い額に、いかつくないほどに濃い一の字を描いている眉毛は、さながら白沙青松（はくさせいしょう）ともいいたいくらい、秀（ひい）でて見えた。けれど私に、何時までも忘れられぬのはその眼であった。いくらか神経質な、二重瞼の、飽くまでも黒い、賢そうな大きな眼であった。彼女は、決して、人に求めるところがあって、媚（こび）を呈したりして泣いたりなどするようなことはなかったけれど、どうかした話のまわり合せから身の薄命を省みて、ふと涙ぐむ時など、じっと黙っていて、その大きな黒眸（くろめ）がちの眼が、ひとりでに一層大きく張りを持ってきて、赤く充血するとともに、さっと露が潤（うる）んでくるのであった。私は、彼女の、その時の眼だけでも命を投げ出して彼女を愛しても厭（いと）わないと思ったのである。その頃は年もまだ二十を三つか四つ出たくらいのもので若かったが、商売柄（がら）に似ぬ地味な好みから、頭髪（かみ）の飾りなども金あしの簪（かんざし）に小さい翡翠（ひすい）の玉をつけたものをよく挿していた。……

二

それは、その女を知ってから、もう四年目の夏であった。夏中を、京都に近い畿内（きない）のある山の上に過した。高い山の上では老杉（ろうさん）の頂きから白い雲が、碧（あお）い空のおもてに湧いて、八月の半ばを過ぎる頃には早くも朝夕は冷い秋めいた風を身に覚えるようになり、それとともにそぞろに都会の生活が懐（なつ）かしくなってきた。夏の初、山に行くまで、東京から京都に来ると、私は一ヵ月あまりその女の家にいたのであったが、又近いうちに山を下りて行くということを云ってやると、女からは簡単な返事が来て、少しく事情があって、まだ自由な身でないので、内証の男を自分の処に置いとくことは方々に対して憚（はばか）りがある、夏の時は、一年半も会わなかったあとのことで、あれは格別に主人の計らいで公（おおや）けにそうしたのであったが、度々（たびたび）というわけにはゆかぬ、そのうち此方（こちら）から何とか挨拶するまで、京都へは来ないで、すぐ東京の方へ帰って居ってもらいたいというのであった。

けれども私は、どうしてもそのまますぐ東京へ帰ってゆく気にはなれなかった。そして九月の下旬に山を下りて紀伊から大阪の方の旅に二三日を費（ついや）して、侘（わび）しい秋雨模様の、ある日の夕ぐれに、懐かしい京都の街に入ってきた。夏の初、山の方に立ってゆく時は女の家から立っていったので、長い間情趣のない独（ひと）り住居（すまい）に飽きていた私は、暫（しばら）くの間でも女の家にいた間のしっといした生活の味が忘られず、出来ることならば直ぐ又女の処へ行きたかったのだが、女は九月の初に、それまでいた余所（よそ）の家の二階がりの所帯を畳んで母親はどこか上京（かみぎょう）辺の遠い親類にあずけ、自分の身が自由になるまで、少しでも余計な銭の入（い）るのを省（はぶ）きたいと云っていた。そのくらいのことならば、私の方でも心配するから、夏のおわりに、自分が又山を下りてくるまでお母さんは、やっぱり此処の家へ置いて、所帯もこのままにして居るように云い置きもし、手紙でも度度そのことを繰返しいって寄越（よこ）したにもかかわらず、とうとう家は一時仕舞ってしまったと云って来ていたので、私は懐かしさに躍（おど）る胸を抱きながら、その晩方京都に着くと、荷物はステーションに一時あずけにして置き、まず心当りの落着きのよさそうな旅館を志（こころざ）して上京の方をたずねて歩いたが、どうも思わしいところがなく、そうしているうちに秋の日は早くも暮れて、大分蒸（む）すと思っていると、曇った灰色の空からは大粒の雨がぽつりぽつりと落ちてきた。

どこか親し味のある取扱いをして泊めてくれるような処はないだろうか。女はなぜ、あの二階借りの住居を畳んでしまっただろう。自分は、五月から六月にかけて一ヵ月ばかり彼女の処にいる間に健康を増して、いくらか体に肉が付いたくらいであった。しかし、もうあそこにいないと云えば、これから行ってみたところで為方（しかた）もない。母親はどこにいるのだろう。尤も女に逢（あ）おうとおもえば、すぐにでも会えないことはないが、そうして逢うのは、つまらない。

そんなことを考えながら、ともかくも、これから暫くゆっくり滞泊するところが求めたいと思ったけれど、そのほかに心あたりもなく、為方なく又奥まった処から、電車の通っている方へ出てくると、その電車は丁度先に女のいた処へゆく電車であったので、今はそこにいても居なくても、やっぱりそっちの方へ引着けられてゆくような気がして、雨も降ってくるので、そのまま電車に飛び乗った。そして東山の方をずっと廻って祇園町（ぎおんまち）の通りを少しゆくと、そこに彼女の居た家があるので、その近くの停車場で電車を降り、夏の前暫くいて勝手を知っている。暗い路次の中に入っていって見たが、門は締っていて、階下の家主の老女もいる気配はせず、上の、女のいた二階――自分もそこに一ヵ月ばかり女と一つの部屋にいた――は戸が締って火光（あかり）洩れていない。

「まあ、しかし、それは明日になってからでもよい」

そう思いながら、なるたけそこに近い処に宿を取りたい、暫くの間でも好きな女と一緒にいた、懐かしい場所から遠く離れたくない気がして、そこから少し東山よりの方へ上っていった処にある、とある旅館にいって泊ることにした。それというのも、その旅館へはその女とも一緒によく泊りにいったことのある馴染（なじみ）ふかい家であったからだ。そのあたりは、そんな種類の女の住んでいる祇園町に近いところで、三条の木屋町でなければ下河原といわれて、祇園町の女の出場所になっている洒落（しゃれ）た土地であった。それは東山の麓に近い高みになっていて、閑雅な京都の垢でも取り分けて閑寂なので人に悦（よろこ）ばれる処であった。

三

その前の年の冬に東京から久しぶりに女に逢いにいった時にも、矢張りその家へ泊ったが、私はその時分のことを忘れることが出来あい。急に会って話したいことがあるから来てもらいたいという手紙を、女から寄越したので、一月の中ごろであった。私は夜の汽車で立っていった。スチームに暖められた汽車の中に仮睡の一夜を明かして、翌朝早く眼を覚ますと、窓の外は野も山も、薄化粧をしたような霜に凍（い）てて、それに麗（うらら）かな茜色（あかねいろ）の朝陽の光が漲（みなぎ）っていた。雪の深い関ヶ原を江州（ごうしゅう）の方に出抜けると、平濶（へいかつ）な野路の果てに遠く太陽をまともに受けて淡蒼（うすあお）い朝靄（あさもや）の中に霞（かす）んで見える比良（ひら）、比叡（ひえい）の山々が湖西に空に連らっているのも、もう身は京都に近づいていることが思われて、ひとりでに胸は躍ってくるのであった。そして、幾ら遠く離れていても、東京に静（じっ）としていれば、諦（あきら）めて落着いている筈の、いろいろの思いが、汽車の進行につれて次第に募（つの）ってきて、はては悩ましいまでに不安に襲われてくる。

「女はいい塩梅（あんばい）に家にいるだろうか。此間中から大阪などへ行っていて留守ではなかろうか。大阪には一人深くあの女を思っている男があるのだ。……自分が女を初めて知った時の夏であった。その男に招（よ）ばれて、女が向うの座敷にいっている時、ちょうど上の木屋町の床で、四五軒離れた処から、二人とも今湯を上がったばかりの浴衣姿（ゆかたすがた）で、その男の傍に女が来て坐っているところを遠見に見たことがあった。その時さながら身を熬（い）るような悩ましさを覚えたことがあった。それを思うても、何が苦しいといって恋の苦しみほど身に徹（こた）えるものはない。どうか家に居ってくれて、すぐに逢えればよいが。昨夜は、こうして、自分は汽車に一夜を明かして、はるばる東京から逢いに来たのである。女はどこへ、どんな人間の座敷に招ばれていったろうか。まだ朝は早い。朝の遅い廓（くるわ）では今ごろはまだ眠っているであろう」

そんなことが錦々して、後からあとから思い浮んで、汽車の座席にじつとしているに堪えられないくらいになった。私はそのあたりから頼信紙をとり出して、十一時までには必ず加茂川（かもがわ）べりのある家に行き着いているからという電報を打って置いた。そして京都駅に着いたのはまだ八時頃であったが、どんよりとした暁靄（あさもや）は朝餉（あさげ）の炊煙と融合（とけあ）い、停車場前の広場に立って、一年近くも見なかった四囲の山々を懐かしく眺めわたすと、東山は白い靄に包まれて清水（きよみず）の塔が音羽山の中腹に夢のようにぼんやりと浮んで見える。遠くの愛宕（あたご）から西山の一帯は朝暾（あさひ）を浴びて淡い藍色（あいいろ）に染めなされている。私は足の踏み度（ど）も軽く、そこからすぐ先刻電報で知らしておいた加茂川べりの、とある料理屋を志していったが、そこも廓の中にある家のこととて、家の前に行った時、ようよう店の者が表の戸を明けかけているところであった。やがて階段を上がって、河原を見晴す二階の座敷へ通り、食べる物などをあつらえているうちに、靄とも烟（けむり）ともつかず、重く河原の面（おもて）を立ち罩（こ）めていた茜（あかね）色を帯びた白い川霧がだんだん中空をさして昇（のぼ）ってくる朝陽の光に消散して、四条の大橋を渡る往来の人の足音っばかり高く聞えていたのが、ちょうど影絵のような人の姿が次第に見え渡って来た。静かな日の影は麗々（うらうら）と向岸の人家に照り映えて、その屋並の彼方に見える東山はいつまでも静かな朝霧に籠められている。

女中に、少ししたら女の声で電話がかかってくるかも知れぬからと頼んで置いて、私はひとり暖かい鍋の物を食べながら、

「ああいって、委（くわ）しい電報を打って置いたけれど、丁度いい塩梅に女が家にいるか、いないか分らない、とり分け気ばたらきのない、悠暢（ゆうちょう）な女のことであるから……・尤（もっと）もその、しっとりして物静かなとことがあの女の好い処であるが……たとい折よく昨夜の出先きから今朝もう家に戻ってきていたにしても、あの電報を見て、早速（さっそく）てきぱきと、電話口に立ってゆくようなことはあるまい。ほんとに、人の心も知らないというのは彼奴（あいつ）のことだ」

と、そんなことを思って、不安の念に悩んでいると、ものの一時間ともたたないうちに、女中が座敷に入ってきて、

「あの、お電話どっせ」という。

私は、跳（は）ね上がったような気がしながら、すぐさま立って電話のところへ下りていった。

「ああ、もしもし私」と声を掛けると、向うでも、

「ああ、もしもし」と呼ぶ声がする。何という懐かしい、久し振りに聴く女の声であろう。振顧（ふりかえ）って考えると、それは去年の五月から八九ヵ月の間も聴かなかった声である。手紙こそ月の中に十幾度となく往復しているが、去年の五月からと云えば顔の記憶も朧（おぼ）ろになるくらいである。

「ああ、わたし。電報を読んだの？」

「ええ、今読んだとこどす」

「よく、家にいたねえ。こちらは分かっているだろう」

「よう分っています」

「それじゃすぐおいで」

「ええ、いても、よろしいけど、そこの人知っとる人多うおすさかい。私顔がさすといけまへんよって。あんたはん、今日そこから何処（どこ）へおいでやすのどす」

「どこへ、とは？泊るところ？」

「ええ、そうどす」

「それは、まだ定めてない。あんたに一遍逢ってからでもいいと思って」

それから兎（と）に角（かく）そんなら東山の方のとある、小隠れた料理屋で一応逢ってからのことにしよう。二時から三時までの間に両方でそこまで行って待合わすことにして互いに電話を切ろうとすると、女は念を押すように、

「もしもし、あんたはん違えんようにおしやす」

いくらか嗄（しわが）れたような女の地声で繰返していう。私はいきなり電話口へ自分の口をぴたりと押付けたいほどの気になって、

「戯談（じょうだん）を。そちらこそ違えちゃ可（い）けないよ。私はねえ、京都の地にいる人と違うんだよ。ゆべ夜汽車で、わざわざ百何十里の道をやって来たのだよ。気の長い人だから、時間が当てにならない。待たしたら怒るよ」そういうと、電話口では、ほほと笑う声だけして、電話は切れた。

やがてもとの座敷に戻ってくると、女中はくたくた煮える鍋の傍に付いていたが、

「来やはりしまへんのどすか」と訊く。

「ここへは来ないようだ」

そういって、私はそこそこに御飯にしてしまった。南に向いた窓から河原の方に眼を放すと、短い冬の日はその時もう頭の真うえから少し西に傾いて、暖い日の光は、そう思うて見るせいか四条の大橋の彼方に並ぶ向岸の家つづきや八坂（やさか）の塔の見える東山あたりには、もう春めいた陽炎（かげろう）が立っているかのようである。私は約束の時間をちがえぬように急いでそこを出ていった。京都の冬の日の閑寂さといったらない。私はめずらしく、少しの酒にやや陶然となっていたので、そこから出るとすぐ居合わす俥（くるま）に乗って、川を東に渡り建仁寺（けんにんじ）の笹藪（ささやぶ））の蔭の土塀について裏門のところを曲って、段々上りの道を東山の方に挽（ひ）かれていった。そして静かな冬の日にさしかけている下河原の街を歩いて、数年前一度知っている旅館を訪（おとの）うと、快（こころよ）く通してくれた。それを縁故にして、その後も度度いって泊ったが、そこの座敷は簡素な造りであったが、主人が風雅の心得のある人間で、金目を見せずに気持よく座敷を飾ってあった。私は厚い八端（はったん）の座蒲団（ざぶとん）の上にともかくも坐って、女中の静かに汲（く）んで出した暖い茶を呑んでから、先刻女と電話で約束した会合の場所が、そこからすぐ近いところなので、時計を出して見い見い遅刻せぬようにと、ちょっと其処までといい置いて、出て行った。そこらは、もう高台寺の境内に近いところで、蓊鬱（おううつ）とした松の木山がすぐ眉に迫り、節のすなおな、真青（まっさお）な竹林が家のうしろに続いていたりした。私は、山の方に上がってゆく静かな細い通りを歩いて、約束の、真葛󠄀（まくず）ヶ原（はら）のある茶亭の入口のところに来て暫（しばら）く待っていた。そこは加茂川ぞいの低地から大分高みになっているので、振顧（ふりかえ）って向うの方を見ると、麗（うらら）かに照る午（ひる）さがりの冬の日を真正面に浴びた愛宕の山が金色に輝く大気の彼方（かなた）にさながら藍霞のように遠く西の空に渡っている。そして、あまり遠くへゆかぬようにしてそこらを少しの間ぶらぶらしているところへ、此方に立って、見ていると細い坂道を往来の人に交ってやって来るんは、まぎれもない彼女である。それは、去年の五月以来八九ヵ月見なかった容姿（すがた）である。だんだん近くなってくると、向うでも此方を認めたと思われて、嫣笑（にっこり）している。銀杏返（いちがえ）しに結った頭髪を撫でもせず、黒い衿巻をして、お召の半コートを着ている下の方にお召の前掛などをしているのが見えて、不断のままである。

「私をよく覚えていたねえ」と、笑うと、

「そら覚えていますさ」

「今そこで宿をきめたのだ。知っているだろう、すぐそこのあの家。あそこが早く気が付くと、すぐあそこへ来てもらうんだった。まあ、いい、入ろう」そういって、私は先に立って、そこの茶亭に入った。

そして、庭の外はすぐ東山裾の深い竹林につづいている奥まった離室（はなれ）に通って、二三の食べる物などを命じて暫く話していた。

「こんな物が出来てえ」と甘えるような鼻声になって、しきりに顔の小さい面皰（にきび）のようなものを気にしている。

「私、ちょっと肥りましたやろ」

「うむ、ええ血色だ。達者で何より結構だ。おして急に話したいことがあるから来てくれと云ったのは何の事だい？」

そういって訊いても女は黙って答えない。重ねて訊くと、

「それは又後で話します」と、いう。

「じゃ、これからそろそろ宿の方へゆこうか」というと、

「私、今すぐは行けまへんの。あんたはん先き帰ってとくれやす。夜になってから行きます」

「なぜ今いけないの。一緒にゆこうじゃないか」そういって勧めたえれど、今は一寸（ちょっと）余処（よそ）のお座敷はずして逢いに来たので直ぐという訳にはいかぬというので、堅く後を約束してそこの家を伴れ立って一緒に出て戻った。そして旅館の入口の前で別れながら、

「一緒に御飯を食べるように、都合して成るたけ早くおいで」

「ええ、そうします」といって、女はかえって去（い）った。

冬の夜は静かに更（ふ）けて、厳しい寒さが深々と加わるのを、室内に取付けた瓦斯暖炉（がすだんろ）の火に温まりながら私は落着いた気分になって読みさしの新聞などを見ながら女の来るのを今か今かと待ちかねていた。女はなかなかやって来なかったので、とうとう空腹に堪えかねて独りで、物足りない夕食を済ましてしまった。そうしていても女はまだやって来ないので、微醺（ほろよい）気分でだいぶ焦（じ）れ焦れしてきて、気長く待つ気で読んでいた雑誌をも遂々そこに投げ出して、暖炉の前に褞袍（どてら）にくるまって肱枕（ひじまくら）で横になり、来ても仮睡した真似をして黙っていてやろう、と思っていると、十時も過ぎて、やがて十一時ちかくになって、遠くの廊下に静かな足音がして、今度は、どうやら女中ばかりの歩くのとは違うと思っていると、衾（ふすま）の外で何かいう気配がして、女中が外から膝をついて襖をそうっと開けると、そこに彼女のすらりとした姿が立っていた。そして、先刻とひがい頭髪の容（かたち）もととのえ薄く化粧をしているのでずっと引立って見えた。こうしてみると、たしかに佳（よ）い女である。この女に自分が全力を挙（あ）げて惚（ほ）れているのは無理はない。こんな女を自分の物にする悦びは一国を所有するよりもっと強烈なる本能的の悦びである。

女は悠揚（ゆったり）とした態度で入ってきながら、

「えらい遅なりました」と、一と口云ったきり、すこしもつべこべしたことはいわない。夕飯は済んだのかと訊くと、食べて来たから、何も欲しくないという。翌日は一日、寒さを恐れて外にも出ずにそこで遊んでいたが、彼女は机に凭（もた）れて、遠くの叔母にやるのだといって頻（しき）りに巻紙に筆を走らせていた。桜の花びらを、あるかなきかに、ところどころに織り出した黒縮緬（くろちりめん）の羽織に、地味な藍色がかかった薄いだんだら格子（ごうし）のお召の着物をきて、ところどころ紅味の入った羽二重しぼりの襦袢（じゅばん）の袖口の絡（から）まる白い繊細（かぼそ）い腕を差伸べて左の手に巻紙を持ち、右の手に筆を持っているのが、賤（いや）しい稼業（かぎょう）の女でありながら、何となく古風の女めいて、どうしても京都でなければ見られない女であると思いながら、私は寝床の上に楽枕しながら、女の容姿に横からつくづく見蕩（みと）れていた。……

その時は、その晩遅い汽車で、女に京都駅まで見送られて東京に戻って来た。それから一年ばかり、手紙だけは始終贈答していながら、顔を見なかったのである。

四

その女が、自分の外にどんな人間に逢っているか、自分に対して、果してどれだけの真実の感情を抱いているか。近い処にいてさえ売笑を稼業としている者の内状は知るよしもないのに、まして遠く離れて、しかも一年以上二年近くも相見ないで、ただ手紙の交換ばかりしていて、対手（あいて）の心の真相は知られる筈もないのであるが、そんなことを深く疑えば、いくら疑ったって際限がなかった。時とすると堪え難い想像を心に描いて、殆（ほとん）ど居ても起ってもいられないような愛着と、嫉妬と、不安のために胸を焦（こが）すようなこともあったが、私は、強（し）いて自（みず）から欺（あざむ）くようにして、そういう不快な想像を掻き消し、不安な思いを胸から追い払うように努めていたのであった。

そして、三四年につづいている長い間の此方の配慮の結果、あたりまえならば、もうとうに女の身の解決は着いている筈であるのに、それがいつまで経（た）っても要領を得ないので、後には自分の方から随分詰問（きつもん）した書面を送ったこともあったが、女はそれについては、少しも、此方を満足せしめるようなはっきりした返事を寄越さなかった。とうとう又、ようやく一年半ぶりに女に逢うべく京都の地に来ていながら、私はただ、あたりまえの習慣に従って女に逢うのが物足りなくなって、この前の時のように手紙や電報で合図をしても、それに対して一向満足な手紙をよこさないのであった。ただ普通の習慣に従って逢おうとすれば直ぐにでもあえるのであるが、女の方から進んで何とか云ってくるまでは暫（しばら）く放棄（ほ）っておこう。これを仮りに人の事として平静に考えてみても、向うから進んで何とか云わなければならぬ義理である。百歩も千歩も譲って考えても、いくら卑（いや）しい稼業の女であってもそんな訳のものではない。

そう思い諦（あきら）めて、暫くの間、気を変えるために、私は晩春の大和路（やまとじ）の方へ小旅行に出掛けていった。そっちの方は、もう長い間行ってみたいと思っていたところであったが、この四五年の間私の頭の中は単于その女の為に占領せられて、ほかのことは何も彼も後まわしにして置いた。事実のこと、私は、その女を自分のものにしなければ、何も欲しくないと思っていたのであった。名誉も財宝も入らぬ。ただ、あの、漆（うるし）のように真黒い、大きな沈んだ瞳、おとなしそうな顔、白沙青松のごとき、ばらりとした眉毛、ふっくりと張った鬢（びん）の毛、すらりとした容姿。あらゆる、自分の心を引着ける、そんな美しい部分を綜合的に持っている生き物を自分の所有にしてしまわなければ、身も世もありはせぬ。随分身体を悪くするまでそんなに思い詰めてこの数年を、まるで熱病にでも罹（かか）っている如き状態で過ぎて来たのであった。

それゆえ私が、美しい自然や古い美術の宝庫である大和の方の晩春の中に入って行ったのは、丁度ウェルテルが悲しく傷（いた）んだ心を美しい自然の懐（ふところ）に抱かれて慰めようとしたと同じようなっものであった。

そして一と月近く大和の方の小旅行をして再び京都に戻って来た時にはもう京都の自然もすっかり初夏になっていた。悩ましい日の色は、思い疲れた私の眼や肉体を一層懊悩（おうのう）せしめた。奈良からも吉野からも到る処から絵葉書などを書いて送って置いた。女から何とか云って来るだろうと思っていたが、依然として知らん顔をして何のたよりも寄越さなかった。とうとう又根負けして此方から出かけて行って為方（しかた）なく普通の習慣に従ってある家から自分とはいわずに知らすると、女はちょうど折よく内にいたと思われて早速やって来た。一年半の間見なかったのである。この前冬見た時よりも気候の好い時分のせいか、それとも普通に招かれたお座敷にゆくので美しく化粧をしているせいか、ずっと肉が付いて身体が大きくなったように思われ、もとからすらりとした容姿が一段引き立って、脊が更に高く見えた。彼女達がそんな不意の座敷に招（よ）ばれてゆく時の風俗と思われ、けばけばしい友禅（ゆうぜん）の襦袢のうえに地味な黒縮緬の羽織を着ている。彼女は、階段の上り口から私の方を見たが、顔の表情は微動だもせず、ぬうっとして落着いたその態度はまるで無神経の人間のようであった。そして傍へ来ても、「お久しゅう」とも何とも云わず黙ってそこへ坐ったままである。どんなことがあっても彼女は決して深く巧んだ悪気のある女とは認めないが、対手（あいて）のいうことがあまり腹の立つようなことを云ったり、くどかったりする時にはさながら京人形のようにその綺麗な、小さい口を閉じてしまって石の如く黙ってしまうのである。その気心をよく知っているので、私は、こちらでも稍（や）や暫く黙って、わざとらしく、じろじろ女の顔を見ていたが、やっぱり遂に根まけして、

「京人形、京人形の顔を二年も見なかったので、今そこへ来た時にはほかの人間かと思った」戯弄（からか）うようにそういうと、彼女はそれでも微笑もせず、反対に、

「あんたはんかて余（あんまり）やおへんか」

彼女は美しい眉根を神経質に顰（しか）めながら憤（いきどお）るようにいう。私は「えらい済まんこと」くらいはいうであろうと思っていたのに、向うから、そんな不足をいうので、何という勝手な女であろうと思って、腹の中で少し勃然（むっ）となったが、又、そんなべたつくような調子の好いことをいわぬのが却（かえ）って好くも思われる。

「一年と半とし見ないんだよ。そして一体どんな話になるのだい？こんなに長い時間顔を見たいのを堪（こら）えていたのも、後を楽しみにしているからじゃないか」

そういって、今まで手紙の度に幾度となく訊ねている彼女の境遇の解放について重ねて訊ねたが、女は、ただ、

「そのことは又後でいいます」といつたきり何もいおうとしない。

「また後でいいますもないじゃないか。何年それを云っていると思う」

二人はちゃんと坐って向い合いそんな押問答を暫く繰返していたが、彼女は黙って考えていた挙句（あげく）、謎のように、

「ここではそのことを云えませんから、私、かえります」と、いう。

私は、少し眼の色を変えて、

「妙なことをいう。ここで云えないで、どこでそれを云うの？」

「あんたはんがようおいでやす下河原の家へこれからいて待っとくれやす。そしたら私あとからいきます。ここの家から一緒にゆくのは此処（ここ）の家へ対して可（い）けまへんやろ。それから私一遍家へ去（い）んで、あっちゃから往きます」女の持前の愛想のない調子でそんなことをいう。

私は又女のいうことにいくらか不安をも感じたが、本来それほど性情の善くない女とは思っていないので、段々疑いも解け、その気になり、

「じゃ、そうするから、きつとあそこへ来なければ可（い）けないよ」と、根押（ねお）しをして、その上もう余り諄（くど）くいわぬようにして、そこの家は体よくして、二人は別々に出て戻った。

それから私は又、いつかの下河原の家へ行って持っていた。それは日の永い五月の末の、まだ三時頃であったが、彼女は容易にやって来なかった。悠暢な気の長い女であることはよく知っているので、そのつもりで辛抱して待っていたがしまいには辛抱しきれなくなって、いいようのない不安の重いに悩まされているうちに、高い塀に取り囲まれている静かな栽庭（にわ）にそろそろ日が影って、植木の隅の方が薄暗くなり、暖かった陽気が変ってうすら寒く肌に触るようになってきた。それでもまだ女の顔は見られなかった。不安のあとから不安が襲ってきて、いろいろに疑ってみたが、あんなにいっていたからよもや来ないことはあるまい。そんな背を向けて欺き遁（に）げるような質（たち）の悪い女ではない筈である。そんなことをする女を、おめおめ四五年の長い間一途（いちず）に思い詰め、焦れ悩んでいたとしたら、自分はどうしても自分の不明を恥じねばならぬ。義理にもそんな薄情な行為を為向（しむ）けられるような事を、自分は少しもしていない。……今に来るにちがいない。不安の念を、そう思い消して待っていた。

しかし、それは何ともいえない好い晩春の宵であった。この前の冬の時と同じように女の来るのを待っている心に変りはないが、あの時とちがい今は初夏の頃とて、私は湯上りの身体を柔かい褞袍（どてら）にくるまりながら肱枕をして寝そべり、障子を開放した前栽（ぜんざい）の方に足を投げ出して静（じっ）と心を澄ましていると、塀の外はすぐ円山（まるやま）公園につづく祇園社の入口に接近しているので、暖かい、ゆく春の宵を惜んで、そぞろ歩きするらしい男女の高い笑い声が、さながら歓楽に溢（あふ）れたように聞えてくるのである。花の季節はもう疾（と）うに過ぎてしまったけれど、新緑の薫（かおり）が夕風のそよぎとともにすうっと座敷の中に流れこんで、何処で鳴いているのか雛蛙（かわず）の鳴く音がもどかしいほど懐かしく聴えてくる。それを聞いていると、

「あの、喰い付いてやりたいほど好きでたまらない女は、しまいには本当に自分のものになるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思いに責め苛（さいな）まされていなければならぬのであろう。もう何時までもこんな苦しい思いをさせられていないで早く安らかな気持になりたい」

そこへ長い廊下を遠くの方で足音が静かに聴えると思って見ると、やがて女中が襖の外に膝まずきながら、

「えらい遅うおすなあ。御夕飯はどない致しまひょう、もうちょつとお待ちになりますか」

と訊く。そんなことが二三度繰返された後、私はとうとう待ち切れなくなって、腹立ちまぎれに、又いつかの時のように、先きに一人で食べてしまったら、きっと来るだろう、早く顔を見せるまじないに先気に食べてしまおう、と思って、

「持ってきて下さい」と命じた。その自分の心持には、ひとりでに眼に涙のにじむような憤（いきどお）りの感情が込み上げてきた。それは卑しい稼業をの女に飽くまで愛着している、その感情が十分満足されないというばかりでなく、どうして此方のこの熱愛する心持が向うに通わぬであろう。こちらの熱烈な愛着の感情がすこしでも霊感あるものならば、それが女の胸に伝わって、もっと、はきはきしそうなのに、彼女はいつも同じように悠暢であった。

そこへ女中が膳を運んできた。

「おおきにお待ちどおさん」と、いいつつ餉台（ちゃぶだい）のうえに取って並べられる料理の数々。それは今の季節の京都に必ずなくてはならぬ鰉（ひがい）の焼いたの、鮒（ふな）の子膾（なます）、明石鯛（あかしだい）のう塩、それから高野（こうや）豆腐の白醬油煮に、柔かい卵色湯葉（ゆば）と真青な莢豌豆（さやえんどう）の煮しめというような物であった。

私は、口に合ったそれらの料理を、むらむらと咽（のど）へこみ上げてくる涙と一緒に呑込むようにして食べていた。そしてもう済みかけているところへ廊下にほかの女中とはちがうらしい足音がして、襖の蔭から女がぬっと立ち顕（あら）われた。彼女は先刻（さっき）とちがい、余処（よそ）ゆきらしい薄い金茶色の絽（わ）お召の羽織を着て、いつものとおり薄く化粧をしているのが相変らず美しい。

「今まで待っていたけれどあんまり遅いから食べてしまった。まだ？」

「ええ……」

「じゃ、お今さん、すぐこしらえて下さい。このとおりでいい」女中に命ずると、女は、

「入りません。食べんかてよろしい」

「まあ、そんなことをいわないで一緒にたべよう、待っている」

女は、私の方へは答えず、女中に向って

「姉さん、どうぞ、ほんまに置いとくれやす」

といって断ったが、ともかくも調（ととの）えて持って来させた。けれども、彼女は箸（はし）も着けようとせず、餉台の向側に行儀よく坐ったままでいる。そんな近いところから見ていても、ちょうどこんな清々（すがすが）しい初夏の宵にふさわしいばらりとした顔であった。匂やかな薄化粧の装いが鮮（あざや）かで、髪の櫛目（くしめ）が水っぽく電燈の光を反射して輝いている。

女はとうとう並べた物に箸をつけなかった。女中が膳を引いてゆく時、

「姐（ねえ）さん、えらい済んまへんけど苺（いちご）がおしたら、後で持ってきとくれやす」

自分で註文しておいて、やがて女中が退（さが）っていったあとで、女は先刻から黙って考えて居るような風であったが――尤（もっと）も彼女はいつでも、いうべき用のない時は無愛想なくらい口数の少い女であった。時分は、それが好きであった――やがて又、彼女の癖のように、べちゃべちゃとその理由をいわないで出抜（だしぬ）けに、

「あんたはん、私、ちょっと帰ります」と、謎のようなことをいう。

私は思わず胸をはっとさせて、凝乎（じっ）と女の顔を見ながら、

「帰りますって、お前、やっと今来たばかりじゃないか。何故そんなことをいうの。先刻（さっき）の袖菊へいけば、あそこでは話がしにくい、此家へ行っていてくれと、あんたがいうから、私はここへ来たじゃないか。一体お前の体のことはどうなっているの？私ももう四年五年君のことを心配しつづけて上げて、今日になっても、五年前と同じように、やっぱりずるずるでは、とても私の力には及ばない。私は、先日うちから幾度も手紙でいっているとおり、今度もあんたと遊ぶ為にこうして今日は来たのではない。そのことを訊（き）こうと思って来たのだ。君はいつまで商売をしている気でいるの？」

私は腹を立てたような、彼女の為に憂いているような、なんどりした口調で訊ねるのであった。けれど、彼女は、口ごもるようにして、それには答えず、

「それは又あとで解ります」と、困ったような為方なく笑っている。

「あとでいいます云いますって、それが、あんたの癖だ。もうそれを云って聴かしてくれてもいい時分じゃないか」私も為方なく笑いにまぎらしてとい詰める。

「ここではいえまへん」子供かなんぞのように同じことをいう。

「ここでは云えんて、ここで今云えなければ、いう折はないじゃないか。何故かえるというの？」

そういって、問いつめても、女は碌（ろく）に訳もいわずただ頑強に口を噤（つぐ）んでいるばかりである。

明るい電燈の光をあびている彼女の容姿は水際立って、見ていればいるほど綺麗である。そして、ふっと気がついてみると長い間見なかった間にそうして坐っている様子に何となく姉さんらしい落着きが出来て、何処といって口に云えない顔のあたりがさすがに幾らか年を取ったのがわかる。それはそうである。はじめて彼女を知ったのが五年前の丁度今の時分で、爽（さわや）かな初夏の風が柳の新緑を吹いている加茂川ぞいの二階座敷に、幾日もいくかも彼女を傍に置いて時の経（た）つのを惜んでいた。座敷から見渡すと向の河原の芝生（しばふ）が真青に萌（も）え出でて、そちらにも小褄（こづま）などをとった美しい女達が笑い興じている声が、花やかに聞えてきたりした。彼女はその頃よく地味な黒縮緬のたけの詰った羽織を着て、はっきりした、すこし荒い白い立縞（たてじま）のお召の袷衣（あわせ）を好んで着ていたが、それが一層女のすらりとした姿を引立たせてみせた。でもその頃は今から見ると女の二十という年から余り遠ざかっていない若さがあった。私自身にとっても、この女の為に……まさしくこの女のためのみに齷齪（あくせく）思っている間に、五年という幾月は昨日今日と流れるごとく過ぎてしまって、彼女は今年もう二十七になるのである。そう思って又じっとその顔を見ていると、うすい水浅黄の襦袢の衿（えり）の色からどことなく年増（としま）らしい、しっかりしたところも見える。

女は女中が先程持ってきた白い西洋皿に盛った真紅（まっか）な苺の実を銀の匙（さじ）でつつきながら、音なしく口に持っていっている。

「今夜ぜひ逢う約束でもしている人があるのか？」私はそういって訊ねた。

「ちがいます」

「違う約束の人がなければ、ここにいたっていいのじゃないか。手紙でこそ月に幾度となく話はしていたけれども二年近くも逢わなかったのだから私にいろんな話したいことがあるのはあんたもよう解っている筈だ」

「そやから帰ってから、後でいいます」

「あんた、何をいっているのか、私には少しも解らない、かえってから後にいうとは。そんなら今此処（ここ）でいったら可いじゃないか」

「ほんあら、私帰って直ぐあとで使いに手紙を持ってこさします」

「折角ここへ来て、すぐ又帰るというのが私には解らないなあ。あんた、もう私には逢わないつもりなの？」

「ちがいます。私又あとで逢います」

「なあんの事をいっているのだが、私には少しも合点がゆかぬ。しかしまあ可い。それじゃお前の好きなようにおしなさい。どんなことをいってくるかあんたの手紙を持ってくるのを待っているから。必ず使いを寄越（よこ）すね」

「ええ、これから二時間ほどしてから俥屋（くるまや）をおこします。ほんなら待ってとくれやす」

そういい置いて、彼女は静かに立ち上って廊下の外に消えるように帰ってしまった。私は又変な不安の念（おも）いを抱きながら、あまり執拗（しつよう）に留めるのも大人（おとな）げないことだと思って女のいうがままにさしておいた。開放した濡縁（ぬれえん）のそとの、高い土塀で取り囲んだ小庭には、霧が立ち白んだようになって、いくらか薄暖かい空気の中へ爽やかな夜気が絶えず山の方から流れ込んでくる。私は食べ物の香の残っている餉台（ちゃぶだい）の処から身体をずらして、そちらの小庭に近い端の方へ行って又ごろりと横になり、わけもなく懐かしい植物性の香気の立ち薫（かお）っているような夜気の流通を呼吸しながら、女の約束していった二時間のちのたよりを、それがどんなものであるかという不安で堪らない中にもいい難い楽しみに充（み）ちた期待を以って待つ心でいた。

あたりは静かなようでも、さすがに一歩出れば、すぐ繁華な夜の賑（にぎわい）の街に近いところのこととて、折々人の通り過ぎるどよみが遠音にひびいてくる。しかし、その為に一入（ひおしお）静けさを増すかのように思われる。あんまり快い気持ちなので、私は肱を枕にしたまま、足の先を褞袍（どてら）の裾にくるんで、うつらうつらとあっていた。そこへ女中が入ってきて、

「お風召すといけまへん。もうお床おのべ致しまひょうか。……あの、どこか一寸おいきやしたんどすか」

「ああ、お今さんか。あんまり好い心地なのでうとうととしていた。……いや、ちょっと、もう少し待って下さい」

「そうどすか。そやったら、どうぞええ時およびやしておくれやす」お今さんは、そのまま又静かにさがっていった。

時刻は段々移って、障子開けてそうしているのが冷えすぎるくらいに夜も更けてきた。ああ云っていたが、女はいつになったら本当に使いをよこすだろ。もう、そろそろここの家（うち）でも門を締めて寝てしまう時分である。もしこのまま放棄（ほう）ってしまうようなことでもしたら、どうしてやろう。いっそ、このまま床を取らして寝て居ろう。生（なま）なか目を覚まして起きていると、そのことばかり思って苦しくて可けない。眠って忘れよう。そんなことを思いながら、又うとうとしているところへ、廊下を急ぐ足音にふと目を覚まされると、女中が襖の外に膝をついて、

「お手紙どす」と、いって渡す封書を手にとってみると、走り書きの手紙で、「先ほどは失礼いたしました。まことにむさくるしい処なれど一しょに御こし下され度（たく）候。あとはおめもじのうえにて」と書いてある。状袋を裏返してみたが、処も何も書いていない。

「お今さん、どんな使いがこれを持ってきた」女中に訊ねると、

「さあ、わたし、どや、よう知りまへんけど、何でも年をとった女の人のようどした」

「年とった女。まだ待っているだろうな」私はすぐには合点がゆかなかった。

「へえ、待ってはります」

それで、急いで玄関の処に立ち出てみると、門の外にいるというので、また玄関から門のところまで、長い敷石の道を踏んで出てみると、そこには暗がりの中に彼女の母親が佇（たたず）んでいた。

「あっ、おかはんですか。お久しゅうお目にかかりません」と思わず懐かしそうにいった。使いが母親であったので、私はもう、すっかり安心して好い心持になってしまった。

「えらい御返事が遅うなって済まんさかい、ようお詫（ことわ）りをいうておうれやすいうて、あの娘（こ）がいうていました」母親は、門口の、頭のうえを照らしている電燈の蔭に身を隠すようにしながらいう。

「どうも、こんな夜ふけに御苦労様でした。じゃすぐ一緒に行きますから、一寸待っていて下さい、私着物を着てきますから」

私は又座敷に取って返して衣服を更（あらた）め、女中には、都合で外へ泊ってかも知れぬといい置いて、急いで又出て来た。

「お待ちどおさま。さあ行きましょう」

五

私は、それから母親の先に立ってゆく方へ後から蹤（つ）いて行った。もう夜は十二時も疾（と）うに過ぎているので、ことに東山の畔（ほとり）のこととて人の足音もふっつりと絶えていたが、蒼白く霞の立ち罩（こ）めた空には、ちょうど十六七日ばかりの月が明るく照らして、頭を仰（あおむ）けて眺めると、そのまわりに暖かそうな月暈（おかさ）が銀を燻（いぶ）したように霞んで見えている。そんな遅く外を歩いていて少しも寒くなく、何とも云えない好い心地の夜である。私は母親と肩を並べるように懐かしく傍に寄り添いながら、

「おかあはん、ほんとうにお久し振りでした。こうと、いつお目にかかったきり会いませんでしたか」といって私は過ぎたことを何彼（なにか）と思い浮べてみた。

はじめて女を知った当座、自家（うち）はどこ、親達はどうしている、兄弟はあるのかなどと訊いても、だれでも、人をよく見たうえでなければ容易に実のことをいうものではないが、追々親しむにつれて、親は、六十に近い母が今は一人あるきり、兄弟も多勢あったが、みんな子供のうちに死んで、たった一人大きくなるまでは残っていた弟が、それも去年二十歳で亡くなった。それがために母親はいうまでもなく自分までも、今日ではこの世に楽しみというものが少しも無くなったくらいに力を落している。叔父叔母といっても、いずれも母方の親類で、しかも母親とは腹の異った兄弟ばかり。父親の親類というのは何処（どこ）にもなく、生命（いのひ）の綱とも杖とも柱とも頼んでいた弟に死なれてからは本当の母ひとり娘ひとりのたよりない境涯であった。彼女は、ほかの事はあまり云わなかったが、弟のことばかりは腹から忘れられないと思われて、懐かしそうによく話して聞かせた。私は、そんな身の上を聴くと、すぐさま自分のお思い遣りの性癖から「天の綱島」のお春が「私ひとりを頼みの母さん、南辺（みなみへん）に賃仕事して裏家住み。死んだあとでは袖乞（そでごい）非人の飢え死にをなされようかと、それのみ悲しさ」と喞（かこ）ち嘆くところを思い合わせて、いとさらにその女が可憐な者に思えたのであった。

もとは父親の生きている時分から上京（かみぎょう）の方に住んでいたが、廓に奉公するようになって母親も一緒に近い処に越してきて、祇園町の片ほとりの路次裏に侘しい住いをしていた。そこへ訪ねていって初めて母親に会った。そして後々の事まで話した。彼女はこんな女にどうしてあんな鶴のような娘が出来たかと思われる、むくつけな婆さんであったが、それでも話の様子には根からの廓者でない質朴なところがあって、

「ほんまの親一人子ひとりの頼りない身どすさかい、どうぞよろしゅうお願いいたします」といって、悲しい鼻にかかる声で、今のように零落せぬ、まだ一家の困らなかった時分のことなどを愚癡（ぐち）まじりに話してきかせた。その話によると、彼女の家はもと同じ京都でも府下の南山城（みなみやましろ）の大河原に近い鷲峰山下（しゅうほうさんか）の山の中に在ったのであるが、二三十年前に父親が京都へ移ってきた。故郷の山の中には田畑や山林などを相当に所持していたが随分昔のことで、その保管を頼んでいた人間が借金の抵当に入れてすっかり取られて無くしてしまった。

「あれだけの物があればこの子にこない卑しい商売をさせんかて、あんたはん結構にしていられますのや」

母親は心細い声でそんな古いことを迄いっていた。

女もそこに坐って、黙って母親と私との話を聴いていたが、大きな黒い眼がひとりでに大きくなって充血するとともに玉のような露が潤（うる）んだ。

「もう古い事どすやろ」と、彼女はただ一口音無しく云って、母親の話もそれきりになった。

その後の夏の終頃までも京都の地にいる間偶（たま）に母親のところへも訪ねていってその度ごと女の後々の事など繰返して話していたのであった。降雇（ふりかえ）って指を折ってみると、もうあの時から足かけ五年になる。

「おかあはん、あなたがどうして居られるか私、始終、心に懸っていたのです。手紙の度にあなたのことを訊ねても何処にいるのか、少しも委（くわ）しいことを知らないものですから、一向不沙汰をしていました」

「滅相もない。私こそ御不沙汰してます。あんたはんが始終無事にしといやすちゅうこと、いつもあの娘から聞いていました。ほんまに何時もお世話になりまして、お礼の申様もおへんことどす」

月の下の夜道をそんなことを語り合いながら私達はもう電車の音も途絶えた東山通を下へしもへと歩いていった。そして暫（しばら）く行ってから母親は、とある横町を建仁寺の裏門の方へ折れ曲りながら、

「こっちゃおいでやす」といって、少しゆくと、薄暗いむさくるしい路次の中へからから足音をさせて入っていった。私はその後から黙って蹤（つ）いてゆくと、すぐ路次の突当りの門をそっと扉を開いて先きに入り、

「どうぞお入りやして」といって、私のつづいて入ったあとを閂（かんぬき）を差してかたかた締めて置いて、又先きに立って入口の潜戸（くぐり）をがらりと開けて入った。私もつづいて家の中に入ると、細長い通り庭が又一つ、ようよう体の入れるだけの小さい潜戸で仕切られていて、幽（かす）かな電燈の火影が表の間の襖（ふすま）ごしに洩れてくるほかは真暗である。母親はあたそのくぐりをごろごろと開けて向うへ入った。そして同じように、

「どうぞ、こっちゃへずっとお入りやしとくれやす。暗うおすさかい、お気付けやして」

といって中の茶の間の上（あが）り框（かまち）の前に立って私のそっちへ入るのを待っている。私は手でそこらをさぐりながら又入って行った。と、そこの茶の間の古い長火鉢の傍には、見たところ六十五六の品の好い小奇麗な老婦人が静かに坐って煙草（たばこ）を喫（す）っていた。母親はその老婦人にちょっと会釈しながら、私の方を向いて、

「構まへんよって、どうぞそこからお上がりやしてくれやす。お婆さん、どうぞ御免たしとくれやす」といって、自分から先きに長火鉢の前を通って、すぐその三畳の茶の間のつきあたりの襖の明いているところから見えている階段の方に上がってゆく。私はそれで、やっと段々解ってきた。

「これは、此の品の良い老婦人の家の二階を借りて同居しているのだな」と、心の中で思いながら自分もその老婦人に対して丁寧に腰を折って挨拶をしつつ、母親のあとから階段を上がっていった。すると、階段のすぐ取付（とりつき）は六畳の汚れた座敷で、向うの隅に長火鉢だの茶棚などを置いてある。そして、その奥にはもう一間あって、そちらは八畳である。

母親は階段を上がるなり、

「おいでやしたえ」とそっちへ声を掛けると、今まで暗い処を通ってきた眼には馬鹿に明るい心地のする電燈の輝いている奥から女が先刻（さっき）のままの姿で静かに立って来た。まるで先程の深く考え沈んでいる様子とは別人のごとく変って、打（う）ち融（と）けた調子で微笑（ほほえ）みながら、

「お越しやす。先程はえらい失礼しました。こんな、むさくるしい処に来てもろうて、済んまへんけど、あこより此処の方が気が置けいでよろしいやろ思うて」と、彼女はお世辞のない、生（うぶ）な調子でいって、八畳の座敷の方に私を案内した。

私はもう、それで、すっかり安心して嬉しくなってしまい、座敷と座敷の閾（しきい）のところに立ったまま、そこらを見廻すと、八畳の右手の壁に沿うて高い重（かさ）ね箪笥（だんす）を二棹（さお）も並べ、向うの左手の一間の床の間には一寸した軸を掛けて、風呂釜などを置いている。見たところ、もう住み古した雑な座敷であるが、それでも八畳で広々としているのと、小奇麗に掃除をしているのとで何となく明るく居心地が好さそうに思われる。座敷のまんなかに陶物（せともの）の大きな火鉢を置いて、そばに汚れぬ座蒲団を並べ、私の来るのを待っていたようである。私は、つくづく感心しながら、

「これは好い処だ、こんな処にいたのか。いつからここにいたの。まあ、それでも此様（こん）なところにいたのならば、私も遠くにいて長い間会わなくっても、及ばずながら心配して上えた効（かい）があったというものだ。うう好い箪笥を置いて」私はそういいながら尚お立っていると、

「まあ、どうぞここへお坐りやして」と、母子（おやこ）ともどもして云う。

やがて火鉢の脇の蒲団に座を占めて、母親は次の間の時分の長火鉢の処から新しい宇治を煎（い）れてきたり、女は菓子箱から菓子をとってすすめたりしながら漸く差向いでそこで話していた。

「長いことあんたはんにもお世話かけましたお蔭で私もちょっと楽になったとこどす」

自分でもよく口不調法だといっている彼女は、たらたらしい世辞もいわず、簡単な言葉でそんなことをいっていた。

私はいくらか咎（とが）めるような口調で、

「そんならそれと、なぜ、もつと早く此処へ来てくれ話をするとでも言ってくれなかったのだ。一ヵ月前此方へ来てからばかりじゃない、もう今年の初め頃から、あんなにやいやい喧（やかま）しいことを云って寄越したのも、それを知らぬから、入らぬ余計な憎まれ言（ごと）をいったようなものだった。こうして来てみて私は安心したけれど」

すると、母親も次の間の襖の蔭から声を掛けて、

「この子がそういうていました。おかあはん、私は口が下手（へた）で、よういわんさかい、あんたから、お出でやしたら、ようお礼いうてえやちゅうて。……此家のことも、もっと早うにお返事すりゃ好うおしたのどすけど、この子が二月に一と月ほど、ちょっと心配するほど患（わずら）いましたもんどすさかい、よう返事も出しまへなんだのどす」

私もそちらへ顔を振向けながら、

「いや、もう、こうして来て見て、思っていたほどでなかったので安心しました」と、そちらへ声を掛けた。

ちょうど気候の加減が好いので、いつまで起きていても夜の遅くなっているのが分らないくらいである。

やがてまた母親が、

「もう二時を疾（と）うに過ぎたえ。……あんたはんもお疲れやしたろ。お休みやす」

といったので、ようやく気が付いて寝支度をした。

六

そこがあまり居り心が好かったので、何年の間という長い独棲生活（ひとりぐらし）に飽いていた私は、そうして母子（おやこ）の者の、出来ぬ中からの行きとどいた待遇（もてなし）ぶりに、ついに覚えぬ、温い家庭的情味に浸りながら一ヵ月余をうかうかと過してしまった。その為に、まだ春の寒い頃から傷（そこ）ねていた健康をも、追々暖気に向う気候の加減も手伝って、すっかり回復したのであった。

女は用事を付けてその月一ぱいだけは一週間ばかり家にいたまま休んでいた。どこへか一緒に歩いてみようかといって誘っても、

「ほんとに商売を廃（や）めてしもうてからにします」とばかりで、夜遅く近処の風呂にゆくほかは一日静かにして家にとじ籠（こも）っていた。そして稚（おさな）い女の子の気まぐれのように、ふと思い出して風爐（ふろ）の釜に湯を沸かして、薄茶を立てて飲ましたりした。そして、そこにある塗り物の菓子箱を指して、

「わたしが二月に病気で寝ている時これを持って、見舞いに来てくれた人が、その時私を廃（や）めさすいうてくれたんどっせ」

「へえ、そんな深い人があるの」

「深いことも何もおへんけど」

「そして引かすといった時あんたは何と云ったの」

「私、すこし都合がおすさかいいうて断りました」

「その人はどんな人？何をする人」

「やっぱり商人の人です」

「まだ若い人？」

「若いことおへん。もうおかみさんがあって、子供の三人もある人どす」

「そんな人為方（しかた）がないじゃないか」

「そやから、どうもしいしまへん」

「でも向うではお前が好きなのだろう」

「そりゃ、どや知りまへん」

母親のいない時など私達二人きり座敷で遊んでいてそんなことを話すこともあった。女はいつも無口で真面目（まじめ）なようでも打融けてくると、よくとぼけた戯談（じょうだん）を云った。

母親がどこかへ行っていない時、宵のうちから私が疲れたといって、床を取ってもらって楽枕（らくまくら）をして横になっている傍にきて彼女は坐っていたが、急に真面目になって、

「私、あんたはんにまだいいまへなんだけど、本当は一人子供が出来たんどっせ」と、いう。

私は初を疑いながら、凝乎（じっ）と女の本当らしい眼の処を見て、

「嘘（うそ）だ」というと、

「うう」と、女は頭振（かぶ）りをふって、「ほんまどす」という。

「それは、そんな商売をしていたって、全く例のないことでもないから。本当？」

「ほんまどすたら」

「へへ」と、いっていたが、私はむらむらと真気（むき）になってきて、体中の血が凍るような心地になり、寝床の上に腹這（はらば）い置き直って、

「いつ？近いこと？」追掛けて訊（たず）ねた。

すると女は、いよいよ落着いて、

「ええ、ちょっと半歳ほどになります」

「じゃ、私が一年半も来なかった間のことだな」といったが、私は自然に声が上（うわ）ずったようになるのを、わざと心で制しながら、「じゃ、おかあはんも喜んでいるだろう。どんな人間の子？お前にも覚えがあるの？」

「お母はん、悦（よろこ）んではります」

「そうだろうとも。それが、いつか話したお前の病気の時廃めさすといって来た人のこと？……そしてその赤ン坊は何処にいるの？どこかへ里子にでも預けてあるの」

私はもう、何も彼もそうと自分の心で定めてしまった。そうすると、胸が無性にもやもやして、口が厭な渇（かわ）きを覚えて堪らない。そして、そう思いつつ、寝ながら改めて女の方を見ると、いつもの通り、しつとりとした容姿（すがた）をして、なりも繕（つくろ）わず、不断着の茶っぽいだんだらの銘仙の格子縞の袷衣（あわせ）を着て、形のくずれた銀杏返（いちゅがえ）しの鬢（びん）のほつれ毛を撫で付けもせず、すぐ傍に坐っている顔の蒼いほど色の白い、華奢（きゃしゃ）な円味（まるみ）を持った頷（おとがい）のあたりがおとなしくて、可愛らしい。私は心の中で、

「どんな男が、この私の生命（いのち）に同じい女に子を生ましたのだろう。何故私の子が生まれなかったか。そんなことが万一にもあるかも知れぬからこそ、一日も早く商売を廃めさしたかったのだ。いよいよ可（い）けないことになってしまった」と、そんなことを思っていると、女は、

「その子見せまよか」という。

「うむ、見せてくれ。どこにいる。男の子か女の子か」

「女の子どす。ほんなら伴（つ）れて来ます」と、いって女は立ち上がった。

何処（どこ）から伴れて来るだろうと思って、私は女の背姿（うしろすがた）を睨（にら）むように見守っていると、彼女は重（かさ）ね箪笥（だんす）の上に置いてあった長い箱を取り下ろして、蓋（ふた）をあけて、その中から大きな京人形を取り出した。

「何あんだ。人を馬鹿にしている」私はそれで、一杯に詰まっていた胸が忽（たちま）ち下がったように軽くなって、大きな声で笑った。

女もほほと、柔和な顔をくずして静かに笑った。

「ええお人形さんどっすやろ」

私は「うう」と、ただ答えたが、その人形や塗物（ぬりもの）の菓子器の彼方にいろいろな男の影が見えるような気がした。

女はよく二つ並べた箪笥の前に坐って鍵をがちゃがちゃいわせていたが、

「あんたはんに見てもらいまよか」といって、衣裳戸棚の中からいろんな衣類をそこへ取拡げて見せたりした。大島紬（おおしまつむぎ）の揃（そろ）った物やお召や夏の上布（じょうふ）の好いものなどを数々持っていた。

「大変に持っているじゃないか。それだけあれば沢山だ」

「それら皆、あんたはんに頂いた物で拵（こしら）えましたのどす」母親もいて、次の間から此方を見ながらそういっていたが、そうばかりでもなさそうであった。

「これもあんたはんので……」と、いいながら彼女は一枚一枚脇へ取除けてゆくうちに、ついに此の間の夜着ていた金茶の色の入った新調らしいお召し袷衣（あわせ）に手がかかった時、私が、

「それも？」といって、訊くと、何故（なぜ）か、彼女も母親もそれには黙っていた。

「こんなに持っていれば安心じゃないか」そういうと、母親は、

「まだまだあんたはん、あんと持っていましたのどすけど上京（かみ）から祇園町（こっちゃ）へ来るようになった時、みんな売ってしまいましたのどす。人のために災難に罹（かか）って、持ってた物を悉皆（しっかい）取られても足りまへんので、此の子にとうとうこんな処へ出てもらわんならんようになってしまいました」母親の悲しそうな愚癡が又始まった。

「こっちゃへ来てからかて、来た当座はまだ大分持っていましたえ」

「あんたはん、この子何でも人さんに物を上げるのんが好きどすさかい、今のとこへ来た時、あんなところへ来るような人皆（みな）困った末の人達どすよって、ひどい人やと、それこそ着たままの人がおすさかい、なんでも好きなもんお着やすちゅうて、持ったもの皆な上げてしまいましたのどす」

「初めてそこへ来た時、わたし、人が恐（こお）うおしたえ」

「それはそうだったろう。ずぶの世間知らずが、何方（どっち）を向いても性（しょう）の知れない者ばかりのところへ入って来たのだから。……・それでも体さえ無事でいればまた先きで好い事もある」

「ほんま体一つ残っているだけどっせ」彼女はそういって笑った。「残っているのは、あの古い長火鉢と、あの掛硯（かけすずり）だけどす」

私は又そこらを見廻した。箪笥の上には、いろんな細々（こまごま）した物を行儀よく並べていたが、そこには小さい仏壇もあった。私はそれに目をつけて、

「あの仏壇は？」

「あれも新しいのどす。お母はん、こっちゃ来る時古い仏壇を売るのが惜しゅうて」女はそういって柔和に笑った。

私も笑いながら立ち上って、その小さな仏壇の扉を開けて中に祀（まつ）ってあるものをのぞいて見た。一番中央に母子（おやこ）の者の最も悲しい追憶となっている、五六年前に亡くなった弟の小さい位牌（いはい）が立っている。そして、その脇には小さい阿弥陀（あみだ）様が立っていられる。私は何気なく、手を差伸べてそれを取ってみょうとすると、その背後（うしろ）に隠したように凭（も）たせかけてあった二枚の写真が倒れたので、阿弥陀様よりもその方を手に取り出してよく見ると、それは、どうやら、女の死んだ父親でも、又愛していた弟の面影でもないらしい。一つは立派な洋服姿の見たところ四十恰好（かっこう）の男で、も一枚の方は羽織袴（はかま）を着（つ）けて鼻の下に短い髭（ひげ）を生（はや）した三十ぐらいの男の立姿である。私はそれを手に持ったまま、

「おい、これは何（ど）うした人？」と、女の着物を畳んでいる背後（うしろ）から低い声をかけた。

すると女は、すぐ此方を振顧（ふりかえ）りながら立って来て、

「そんなもん見てはいけまへん」と、むっとしたように私の手から其等の写真を奪いとった。