黑田の聖人へつかはす御文[1]
- 〈勅傳第二十一卷に載す。世にこの文を小消息と稱して尊重す。淨土の安心起行を明すに最も要を盡したるものなり。〉
末代の衆生を往生極樂の機にてあてゝみるに、行すくなしとてうたがふべからず。一念十念にたりぬべし。罪人なりとてうたがふべからず、罪根ふかきをもきらはず、時くだれりとてうたがふべからず。法滅[2]已後の衆生なを往生すべし。いはんやこのごろをや。わが身わろしとてうたがふべからず。自身はこれ煩惱具足せる凡夫なりといへり。十方に淨土おほけれども、西方をねがふは、十惡五逆の衆生もむまるゝゆへ也。諸佛の中に彌陀に歸したてまつるは、三念五念にいたるまでみづから來りてむかへ給ふがゆへ也。諸行の中に念佛をもちゆるは、かのほとけの本願なるがゆへ也。今彌陀の本願に乘じて往生してんには、願として成ぜずといふ事あるべからず。本願に乘ずる事は、たゞ信心のふかきによるべし。うけがたき人身をうけて、あひがたき本願にあひて、をこしがたき道心ををこして、はなれがたき輪廻のさとをはなれて、むまれがたき淨土に往生せん事は、よろこびの中のよろこび也。つみをば十惡五逆のものなをむまると信じて、小罪をもをかさじとおもふべし。罪人なをむまる、いかにいはんや善人をや。行は一念十念むなしからずと信じて無間に修すべし。一念なをむまる、いかにいはんや多念をや。阿彌陀佛は不取正覺の詞を成就して、現にかのくににましませば、さだめていのちをはらん時には來迎し給はんずらん。釋尊はよきかなや、わがをしへにしたがひて、生死をはなれんとすと知見し給ふらん。六方諸佛はよろこばしきかな。われらが證誠を信じて、不退の淨土に往生せんとすとよろこび給ふらんと、天にあふぎ地にふしてよろこぶべし。このたび彌陀の本願にあへる事を、行住坐臥にも報ずべし、かのほとけの恩德を、たのみてもなをたのむべきは乃至十念の詞。信じてもなを信ずべきは必得往生の文なり。
- ↑ 【黑田の聖人】伊賀國名張郡黑田に住せる聖者。氏名詳かならず。
- ↑ 【法滅】末法萬年の後佛法滅盡すと云ふ說によるもの。但し念佛は法滅後猶百年は存在して衆生を救濟すと經に在り。
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